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なにわレトロビル巡り
戦争を生き抜いた
大正モダンの夢の跡(03)

大大阪時代(だいおおさかじだい)は、大正後期から昭和初期にかけて、
大阪市が大大阪と呼ばれていた時代のこと。
明治時代に隣府でかつての首都であった京都市を人口で上回っていたが、
1925年(大正14年)4月1日の第二次市域拡張によって、
大阪市は西成郡・東成郡の残余44町村全てを編入して、面積181平方キロメートル、
人口211万人となり、東京市を上回る日本一の大都市となった。
当時の世界でも6番目に人口の多い都市であった。

東南西北の4区からスタートした区の数も、同日をもって13区へ増加し、
天下の台所と称された近世以来の豊かな経済地盤を活かして、
商業・紡績・鉄鋼などあらゆる産業が栄え、文化・芸術・産業の中心として
近代建築が華開く街をモボ・モガが闊歩する、
華やかで活気にあふれた黄金時代だったと伝わっている。
大大阪時代は、関東大震災で被災した住民・企業の大阪移住でピークを迎えた。
象徴的な出来事としては、
大坂城天守の再建や御堂筋および大阪市営地下鉄御堂筋線の建設などがある。
(Wikipediaより)


※マウスポインターを置いてください。 

                                           撮影:平成21年01月10日
                                           UP日:平成26年05月15日

開発の大波が
後ろに迫ってますが〜
適塾(てきじゅく)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に
大坂・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。
また、適々塾とも称され、緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来。
(Wikipediaより)

※隣には何故かHONDA CB250が
止めてあります。
動くんでしょうか?


幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、
現在の大阪大学医学部の前身とされている。
(Wikipediaより)
皆さんが使われた階段と思えば
ありがたく見えます〜

※日本家屋は
夏場を想定して〜
開け放せば優しい風が〜

玄関からの敲き



赤ひげ先生思い出します。

※1869年(明治2年)、後藤象二郎大阪府知事、参与小松清廉の尽力により、
東成郡東高津村八丁目寺町(現在の大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に
浪華仮病院および仮医学校が設立される。
院長は緒方惟準(洪庵の次男)、主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招き大福寺の施設の提供を受けて、
一般の病気治療と医師に対する新治術伝習のために開かれた。
半年で鈴木町(現在の大阪市中央区法円坂二丁目)の
河内県庁跡(もと大坂代官所のち南司農局、現在の大阪医療センター付近)に移転した。
緒方惟準、緒方郁蔵(義弟)、緒方拙斎らがこれに参加。
浪華仮病院および仮医学校は、改組・改称を経て現在の大阪大学医学部となっている。
緒方家と大阪大学医学部とは深い繋がりがある。
(Wikipediaより)


おクドさん

※静かな
お庭〜

庭を通して吹く風は〜
未来の日本が見えたんでしょうね。
熱い時代でしてんね。

緒方洪庵書短冊
のちのよの〜

※はしいせん
のちの〜

緒方洪庵先生肖像画

※奥様
八重さん

五姓田義松画

五姓田 義松(ごせだ よしまつ、
安政2年4月28日(1855年6月12日) - 大正4年(1915年)9月4日)は明治期に活躍した画家。

1855年、洋画家である五姓田芳柳の次男として江戸で生まれる。
1865年、チャールズ・ワーグマンに師事。
1874年、川上冬崖の推薦で陸軍士官学校に図画教師として勤務。
1876年、工部美術学校に入学しアントニオ・フォンタネージに師事するが翌1877年に退学。
同年、第1回内国勧業博覧会の洋画部門に「阿部川富士図」を出品し、鳳紋賞を受賞。
1878年より明治天皇の御付画家として北陸・東海地方の行幸に同行した。

1880年に渡仏し、レオン・ボナに師事。日本人初のサロン・ド・パリ入選作家となる。
1889年、アメリカ合衆国を経由して帰国し、明治美術会の創立に携わる。
日清戦争にも従軍した。1915年、横浜の自宅で死去。




使われていた
辞書が展示されてます。

※僅かな隙間も
効率良く〜
階段箪笥
でも、急ですね〜

洋書
大変だったでしょうね。

※解体新書

筆ではなくペン文字



塾生は、こんな景色を
見てたんでしょうね〜



井戸の有る中庭〜



埋め立てられた
河川も描かれています〜

※浮ドン有りましたよ!
右頭郵便新聞差入口

愛珠幼稚園
こちらも教育に掛ける
なにわの心意気〜
瓦にも…

※子供達のお手本に成るマナー
本当ですね!
A●E総理

大阪市立愛珠幼稚園
1880年6月1日に開園した。現存する幼稚園としては大阪府内では最も古い歴史をもち、
また日本でも2番目に古い歴史をもつ。
民間の手によって建てられた幼稚園としては日本最古となっている。
大阪市立開平小学校との交流、専門家を招いての芸術文化体験、動植物の飼育栽培など、
心豊かな子どもを育てることを目標とした幼稚園教育をおこなっている。
また未就園児向けの保育や、夕方や長期休業中の預かり保育も実施している。
淀屋橋の南方、船場のオフィス街の中に位置し、適塾跡に隣接している。
(Wikipediaより)


大阪の町にも空襲が相次ぐなど第二次世界大戦の激化に伴い、
軍需製品を製作・納入している会社が近隣にあったことから、
空襲被害の際に木造園舎の火災が延焼することを恐れた会社側が、
園舎の撤去願いを1945年3月末に大阪市に出した。
園舎は当時から重要な教育建築物と認識されていたため、
解体時期をできるだけ遅くしてもらうように園関係者が折衝したが、
1945年6月には建物疎開の対象と決定した。同年8月4日に取り壊しが計画されていたが、
空襲のために作業が遅れてそのまま8月15日の終戦を迎えたために取り壊しは中止され、
戦後も引き続き園舎を使用している。
(Wikipediaより)

※園舎は当時の主任保母らの意見を参考にしながら、
文部省の技師の指導の元で大阪府の技師が設計した。
園舎は御殿風の和風建築物で、敷地の周囲に高塀をめぐらせていること、
天井を高くとっていること、園庭と遊戯室との間に段差を設けていないことなどの
工夫がされている。


銅座跡とも書かれています。
造幣局が大阪に〜
にも関係有るんでしょうね。
朋有り遠方より来る〜
46Poohさんお東より…

私と福ちゃん&
大阪ランプの会メンバーと〜
up時では無くなったビルも〜
やはり資料として…
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