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なにわレトロビル巡り
戦争を生き抜いた
大正モダンの夢の跡(07)

大大阪時代(だいおおさかじだい)は、大正後期から昭和初期にかけて、
大阪市が大大阪と呼ばれていた時代のこと。
明治時代に隣府でかつての首都であった京都市を人口で上回っていたが、
1925年(大正14年)4月1日の第二次市域拡張によって、
大阪市は西成郡・東成郡の残余44町村全てを編入して、面積181平方キロメートル、
人口211万人となり、東京市を上回る日本一の大都市となった。
当時の世界でも6番目に人口の多い都市であった。

東南西北の4区からスタートした区の数も、同日をもって13区へ増加し、
天下の台所と称された近世以来の豊かな経済地盤を活かして、
商業・紡績・鉄鋼などあらゆる産業が栄え、文化・芸術・産業の中心として
近代建築が華開く街をモボ・モガが闊歩する、
華やかで活気にあふれた黄金時代だったと伝わっている。
大大阪時代は、関東大震災で被災した住民・企業の大阪移住でピークを迎えた。
象徴的な出来事としては、
大坂城天守の再建や御堂筋および大阪市営地下鉄御堂筋線の建設などがある。
(Wikipediaより)


※マウスポインターを置いてください。 

                                           撮影:平成21年01月10日
                                           UP日:平成26年05月15日

農人橋辺り〜
昔の家屋が東横堀川を背に建っています。

※実業会館
ググッたら小林多喜二の名が〜
蟹工船の著者ですよね。
関係は??

二階建ての家屋が並んでいたんですね。

※安堂寺橘ビル
ネオレトロビルでしょうか?

中央鍍金工業
大正2年(1913)製とか。
堂々とした工場建物です。



正面から〜

※鉄サッシに
ライオン飾り
維持も大変そうですね。

エエでしょう〜?

※元住友家本邸内ビリヤード場
明治9年に銅吹所が廃止された後、
住友家の邸宅と成った。

住友銅吹所跡
大坂銅吹屋(おおざかどうふきや)は江戸時代に全国の銅山から産出した荒銅(粗銅)を
大坂に集積し、南蛮吹により少量含まれる銀を分離し精銅を製造する機関である。
これは輸出用の御用銅を確保し銅地金の流通を幕府が管理する目的で設立されたものであった

(Wikipediaより)

※展示されていた
銅吹所の炉

和洋折衷建物
銅吹屋の中心となったのが泉屋(いずみや)であり、後の住友財閥発展の基礎となった。
泉屋は、元和9年(1623年)に内淡路町に銅吹所を開設し、寛永13年(1636年)に
長堀茂左衛門町に移転し、最大の銅精錬所となり国内の約3分の一を精錬していた。
このほかにも大坂屋(おおざかや)、平野屋(ひらのや)、大塚屋(おおつかや)などの吹屋があったという。
南蛮人からヒントを教わって粗銅から銀を分離する「南蛮吹き」という
精錬技術を完成させ、その後、大坂の同業者仲間にも伝授した。
銅精錬のほか、銅山経営や銅貿易にも携わり、
方広寺の大仏と「国家安康」の銘で知られる梵鐘用の銅を納入したとされる。
(Wikipediaより)

※内部にはビリヤード台が
テーブルのように〜
周りに椅子も…

こんな遊び場がほしい〜
えっ?わが家よりも大きい…汗

※ミナミ祭り
スタンプラリーが有ったんですね。
南区体育厚生協会
南区は平成元年(1989)に
無くなったんですが…
朋有り遠方より来る〜
46Poohさんお東より…

私と福ちゃん&
大阪ランプの会メンバーと〜
up時では無くなったビルも〜
やはり資料として…
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