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川向の道標 臥龍橋が在ったんですね。 (今では先ほど渡った、お洒落な玉手橋が〜) ※日本最初大黒天道 此処より南側の大黒村 もう少し先の、法華寺 (当時、南河内唯一の法華宗寺院だったとか) 石川村加納 |
大黒天 役行者縁だとか〜 ※ |
竹内街道を〜 ※ |
国道なんですが〜 竹内街道は日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と 記されていた難波大道などと同様、日本最古の「官道」である。 現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。 東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路に繋がっている。 かつては丹比道(たじひみち)と言われた。丹比野を横断するのでその名が付いたと推定されている。 天武天皇元年7月1日(672年7月30日)の条に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、 戦の衆多に至る」とみえ、壬申の乱にも使われていたことが分かり、長尾街道と竹内街道であると推定されている。 この道は、古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を走る東西道路であり、 2つの古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。 長尾街道より遅れて敷設されたと考えられる。 また、この街道を直線道路として東西に延長すれば誉田山古墳南端の後円部に、 大山古墳の南東端部の前方部に接して通っていることになる。 つまり、この二つの巨大古墳は地図上の北緯線上に造られていることが分かる。 官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には 4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、既にかなりの人々の往来があったと思われる。 飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらし、飛鳥文化のいしづえとなった。 中世には伊勢街道の一部として存続し、現在では国道166号が通っている。 したがって竹内街道は飛鳥時代より現在に至るまで街道として利用されていることになる。 近世には起点を堺大道筋(紀州街道)交点とした。江戸時代、沿道の竹内集落に松尾芭蕉が一時期住んでいた。 現在、そこに芭蕉歌碑の綿弓塚があり、公園として整備されている。 (Wikipediaより) |
木製電柱本体はないですが つっかえ棒なら〜 ※飛鳥川沿いを〜 |
街道沿いには良い路地が〜 ※ |
キョロキョロしながら〜 ※白壁土蔵大好きですねん! |
土壁が〜 ※日本家屋綺麗に〜 |
暗渠化して里道を拡張〜 ※石臼が… |
曲がりくねった〜 ※綺麗な唐臼も〜 |
新旧の家屋 ※見返って〜 |
黒漆喰 ※井戸のポンプ・石燈籠 気に成りますが… ワンコがヤリまっせと!! |
西町ろ組 隣組長札 ※国道に〜 |
土壁土蔵 ※ええなぁ〜 |
酒屋さんです ※ |
虫籠窓が家紋? |
ちょっと待ってや! ※後ろにも〜 |
電柱ガイシも〜 ※R166です |