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![]() 新宿歌舞伎町交差点 この年と次の年は何度か来ましたなぁ〜 ※この景色は今は見えないですね〜 空き地にビルが生えている。。。 |
![]() 此処も〜 ※歌舞伎町から大久保望む〜 |
![]() 大久保は韓流の町でした… ハングルだらけ懐かしいなぁ〜 ※其のママ北上すると 住宅地へ |
![]() 日常の風景 |
![]() 肥汲みの名残? |
![]() 小泉八雲記念公園 ※彼が晩年過ごした場所とか… 我がイニシエも〜彼の影響も… |
![]() 小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、 ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。 東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) 。 ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。 アイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んだファーストネームは、 ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。 ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、 これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、 当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。 ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。 HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。 1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗る。 「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、 そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。 (Wikipediaより) ※着物を羽織った彼の姿が見えたような〜 |
![]() どんな家屋に住まれていたんでしょうか? ※ギリシャと日本の架け橋ですね。 |
![]() 教え子の浅野和三郎は第一次大本事件の陳弁書でハーンの印象を回想している。 【たゞ見る身材五尺ばかりの小丈夫、身に灰色のセビロをつけ、折襟のフランネルの襯衣に、 細き黒きネクタイを無造作に結びつけたり。 顔は銅色、鼻はやゝ高く狭く、薄き口髭ありて愛くるしく緊まれる唇辺を半ば蔽ひ、 顎やゝ尖り、額やゝ広く、黒褐色の濃き頭髪には少しく白を混へたり。 されど最も不思議なるは其眼なり。 右も左を度を過ぎて広く開き、高く突き出で、 而して其左眼には白き膜かゝりてギロギロと動く時は一種の怪気なきにしもあらず。 されど曇らぬ右眼は寧ろやさしき色を帯びたり。 やがて胸のポケットより虫眼鏡様の一近眼鏡をとり出て、之をその明きたる一眼に当てゝ 、やゝさびしく、やゝ羞色あり、されど甚だなつかしき微笑を唇辺に浮べつゝ、 余等の顔を一瞥されし時は、事の意外に一種滑稽の感を起さゞるを得ざりき。 突如その唇よりは朗かなれど鋭くはあらぬ音声迸り出でぬ。 英文学史の講義は始まれる也。出づる言葉に露よどみたる所なく、 洵に整然として珠玉をなし、既にして興動き、熱加はり、滔々として数千語、 身辺風を生じ、坐右幽玄の別乾坤を現出するに及びて、余等は全然その魔力の為めに魅せられぬ。 爾来三年の間余は一回としてその講義に列するを以て最大の愉快と思はざるはなかりき。(原文まま)】 (Wikipediaより) ※ニャンコ〜 |
![]() 文化住宅でしょうか? |
![]() 1階部分は目隠しされて〜 建て替えられたでしょうね〜 明治期の地図では 戸山原射撃場 ※ |
![]() 学習院女子大学 赤門ですね。。 明治期の地図では 戸山学校練兵場 ※日本館… 学生寮でしょうか? |
![]() 少し台地なんですね。 明治期の地図では戸山とか荒井山とか 山の地名が… ※ |