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久し振りの地蔵さんと、ランチしませんか?
浮ドンから〜
でも、諸事情で短ポタ〜
中野町・桜宮神社(12)

朋有り遠方より来る〜
今年も、地蔵さんが酷暑の秋田より
灼熱地獄の大阪に〜
梅雨明け十日〜〜

前には京都2ルート。
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今回は大阪東部路地へ〜
浮ドン、まだまださんと!!!

※マウスポインターを置いてください。 

                                           撮影:平成25年07月05日 

昔はビルの上に
丸い看板(?)が載っていたんですが〜

※坂の下の
DSは老舗です。

堤防町
御大典記念

明治18年、6月上旬より続いた降雨に加え、6月15日には北朝鮮北部に現れた低気圧(748mm)が、
17日には瀬戸内海西部に現れた低気圧(753mm)が、相次いで大阪付近を襲いました。
2度にわたる低気圧で降り続いた雨は15日夜半から豪雨となり、
17日夜半までに淀川(大阪付近にて観測)で計183.3mmに達する雨量となりました。
さらに雨は6月25日頃から再び降り始め、29日から本格的となり、7月1日には暴風も加わって、
淀川の水位上昇に追い打ちをかけるかたちとなりました。
さきの低気圧によって増水した淀川は、6月17日午後8時30分には枚方で4.24mの水位となり、
左岸枚方駅北岡新町(現・枚方市)の市側天野川堤防が決壊するとともに、三矢村地先の淀川堤防が決壊しました。
さらに破堤箇所の水勢は勢いを増して決壊箇所をえぐり、19日にはその傷口が145.5mに拡大、
浸水は大阪市にも達し、なお河内平野から大阪市に流入している支川寝屋川堤防(通称「徳庵提」)にも迫り、
全堤防が破壊の危機にさらされました。
そこでこの濁水を本川に戻すため、東成郡野田村(現・都島区網島)の堤防を切開して淀川に放流(俗称「わざと切れ」)、
また堰止め工事も進められました。
(淀川河川事務所HPより)

石畳が綺麗な参道
昔から堤防上の桜並木が
綺麗な神社です。

※境内案内図

石碑の案内図も欲しいなぁ〜

※明治36年石碑
建碑有志者の名には
新淀川付け替えの
大橋房太郎氏の名も在ります。

淀川区の主な史蹟・旧跡

※手水舎

稲荷社
まださん呼んでます〜

※昭和15年
皇紀2600年

往来安全
街道沿いの燈籠でしょうか?

※ホテル向いた
遥拝所
伊勢神宮でしょうか?

合祀記念碑




時間がなくて
読めんがな〜






社殿

※社務所
バックにホテルの看板が〜

大阪市域拡張記念
真木利三郎
 
※大正14年に大大阪
大正14年4月1日、東成郡と西成郡の44カ町村が大阪市域に編入されました。
その結果、人口211万4804人、面積181.68平方キロメートル、東京市を抜いて全国一位、
世界六位の人口を抱える大都市となった大阪を、人々は「大大阪」と呼びました。
(大阪市立図書館HPより)


多くの摂社が合祀されています。

※神樹
桜でしょうね。

摂津東成郡中野村(現在の中野町)の淀川左岸に鎮座し、天照皇大神を主祭神とします。
社伝によれば、もとは野田村(現在の東野田町)の旧大和川の堤、字桜の馬場にあったが、
元和6年(1620)に社殿が洪水で流され、漂着した中野村に改めて祀られました。
ところがそこも低地で再び水禍に遭ったため、宝暦6年(1756)現在地に遷座したと伝えられています。

のち、境内はもとより淀川の東岸に至るまで桜が植えられ、
花の盛りには「雲と見、雪と疑ふ」ほどであったので、市中から徒歩や船で訪れる人が多く、
「実に浪花において遊宴の最上、花見の勝地」(『浪華の賑ひ』)と賞される名所になりました。
このため、旧地の地名に因んでつけた社名は、広く桜の花に因むと思われるようになったといいます。

当社はもとは中野村・野田村・備前島町の氏神でしたが、
明治40年(1907)に北野兎我野町(現北区)の若宮八幡神社、同41年に鯰江町(現城東区)の新喜多神社、
同42年に毛馬の八幡大神宮、善源寺町の産土神社を合祀しました。
(都島区HPより)



看板裏にも
櫻宮文字



御大典記念樹

※お百度石

手水鉢

※句碑

背比べ〜





東日本大震災、台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。
カモさん、福ちゃん、ねずみ君、まー殿
お休み〜
中々、皆の都合が合わない。。。
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