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地球温暖化?秋空の生駒の裾から〜
神武天皇・河内湖と秦氏・太秦を考える?
秋祭りとエエ天気〜
孔舎衙(08)

『日本書紀』によると、太歳甲寅(日本書紀太歳(大歳))年の10月5日、
磐余彦(神武天皇)は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、
宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。
筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。
乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。
船団を出して速吸之門に来た時、国津神の珍彦(うづひこ)(宇豆毘古命)、
後の椎根津彦(日本書紀。古事記では槁根津彦)を水先案内とした。
戊午年の2月、浪速国に至る。
3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。
この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。
戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。
磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。
草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞し、この地を盾津と名付けた。


今回も大阪東部路地へ〜
ねずみ君、まだまださんと!!!

※マウスポインターを置いてください。 

                                           撮影:平成25年10月12日 

正法寺跡辺り

※昔はチヌの海が広がったんでしょうね〜
甍の波?ビルの波。。。
町並みの海原

今では大阪湾は
ここから見えません〜

※あべのハルカスが〜

先は石切方面〜
今度行きましょう!今度ね!

※あの嶺が〜
孔舎衙坂なんて想像したら
楽しいですがね…
遠くで太鼓台の音が聞こえます。。

町並みの海原の方に下っていきます。

此処も白いコンクリ部分は
水路ですね。

※地蔵堂に戻ってきて〜

水車が有ったと思われる河川
水流はボチボチ〜

大きな石材が〜

※ムクノキ
手を広げて〜

下り坂を楽しみながら〜



旧河澄家に出ました。

※ウロウロと〜

住宅地の背中合わせに
里山の名残〜



孔舎衙東小学校
難読ですね〜JDさん

※トタン屋根〜

この辺りが海辺だったとか〜
当時は温暖化だったのでしょうか?

※盾津の碑を探したんですが〜

旧孔舎衙農協
布市の掲示板思い出しながら〜

※孔舎衙公民館

旧外環状線沿いの孔舎衙小学校
此処に在るのかと思えば〜

※これ?

昭和7年銘
 帝国在郷軍人孔舎衙村分会

※後ろ向きの碑?

孔舎衙地下水観測所
TPなんて文字も〜

※旧外環状線
波打ち際…
海の底だったんですかね。

気になる御家

※貫通石
新生駒トンネル(昭和60年銘)

庭石屋さんも多くて〜

※餅米でしょうか?
奥手の稲も〜

ニャンコ〜

※地蔵様



東日本大震災、台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。
浮ドン、カモさん、福ちゃん、まー殿
お休み〜
中々、皆の都合が合わない。。。
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