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初春の大和路
OCAイベントで初詣サイクリングに初参加。
法隆寺から石上神宮まで〜
帰りはソロで、いつもの旧村廻り。。
有名人・狛犬〜色んな出会いが!

東安堵(今村家住宅) 12

昨年からの目標はフルサイズ!
中々時間が取れなくて、メンバーさん達とは・・・
穏やかな天候のもと、皆さんと走る野辺は楽しくて〜
でも、キョロキョロ路地探し。。。
自転車は片倉シルク号(昭和41年10月製)
えっ、ウルトラQ・ウルトラマンやビートルズ来日、
トヨタカローラ・グリコポッキー発売
ウォルト・ディズニー死去の年代
(Wikipediaより)


※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成28年01月10日
                                           UP日:平成28年01月15日

安堵町民族歴史資料館
お邪魔して〜
綿の実が〜
(名物:奈良晒)



台所用品

※炭俵・流し・渋うちわ・火消し壷・御飯フゴ…

おクドさん
釜・蒸し器・火吹き竹

※煙抜き窓・明かり取り

置き・掛け時計・ミズヤ



お邪魔して〜

※採光の良い
表の間

廊下



庭園〜

※居間

明治期の鉄道図
大仏線も有ります。
明治期20年過ぎから
大和平野に鉄道が〜
大正期には



鉄道資料

※伴林光平
河内国志紀郡林村(現:藤井寺市林)浄土真宗尊光寺に父 賢静・母 原田氏の次男として生まれ、
西本願寺の学寮(後に同学寮因明学教授)、薬師寺、大和郡山の光慶寺等で仏道修行、
各地で仏道・朱子学・国学・和歌を学ぶ(父は出生前に他界、母も六歳の時に亡くなった)。
朱子学については、浜松の儒者川上東山、国学については、
伊丹の中村良臣・紀州藩の加納諸平・江戸の伴信友、和歌については因幡国神官飯田秀雄などについて学んでいる。
1845年、八尾の教恩寺の住職となり、多くの門人に国学・歌道の教育を行うが、
1861年に教恩寺の壁に七言絶句「本是神州清潔民 謬為仏奴説同塵 如今棄仏仏休咎 本是神州清潔民」を
書き残して出奔、大和国法隆寺村東福寺の駒塚の茅屋に住み、勤王志士として活動した。
1863年、天誅組の変が起こると、五條に駆けつけ、天誅組の記録方を受けもった。
義挙失敗の後、捕えられ、獄中で義挙の経緯を回想した
「南山踏雲録(なんざんしゅううんろく、なんざんとううんろく)」を書き、翌年2月、
京都で斬首処刑された。京都六角の獄舎に移されたときは
生野の変で囚われた平野国臣と牢が隣同士で和歌の贈答をしている。
1891年9月靖国神社合祀、12月従四位追贈。
五十年忌に河内の同志が玉祖神社近くに伴林光平の墓を建てた。
(Wikipediaより)

伴林光平筆屏風

※家紋入り提灯

西国33ヶ所巡礼道

※消防ポンプ

かき氷器

※本日2機目
竜吐水
安堵村


安堵村の安

※水車

脱穀に使う唐箕

※縄綯い機

唐臼使い方

※手水鉢

脱穀用の発動機

※天理軽便鉄道
(新法隆寺〜平端)
1911年の春から天理教ではのちに大正普請とよばれた本部神殿や教祖殿などの建築がはじまり、
信者達はその勤労作業のため天理教本部に向かうようになった。
その行程は大阪湊町から奈良駅経由で丹波市駅(天理駅)まで2時間30分前後、運賃は51銭を必要としていた。
そのため途中の法隆寺駅で下車して徒歩で天理教本部に向かう人も多かったという。
このような天理教の信者の旅客輸送を見込み、杉本久三郎他9名の発起による法隆寺駅前から
山辺郡丹波市町川原城(天理市)にいたる軽便鉄道の敷設免許が1912年1月4日に下付された。
そして11月27日に創立総会が開かれ、天理軽便鉄道株式会社(資本金25万円)が設立され、
社長には戸尾善右衛門、専務には杉本が就任した。
工事は1913年12月法隆寺側よりはじめられ、土地の売却に反対の地主に対し
土地収用審査会へ申立するなど遅れはあったが、それも解決した。
地形はおおむね平坦で富雄川と佐保川の架橋なども順調に工事が進み1915年1月13日に竣工し、
そして2月7日より運輸営業を開始した。
開業時の成績であるが、1日平均旅客数は4.5月が467人、6月188人と目標を大きく下回ってしまった。
その後旅客数は徐々に増加はしてきたが小鉄道のため発展の余地は限られており、
また新法隆寺駅の乗車人員と降車人員に大きな差から見られることから、
往路は天理軽便鉄道を利用し、復路は丹波市駅より奈良まで行き、
乗換して関西本線で大阪湊町にいくか1914年4月に開通した大阪電気軌道により大阪上本町にいったようである。
1916年に社長の戸尾は退任し、軽便鉄道補助法に基づく政府補助金を受けながら営業を続けていた。
こうしたところ大阪電気軌道は西大寺駅(後の大和西大寺駅)から南進して橿原神宮に至る、
畝傍線(うねびせん)(近鉄橿原線)の計画を立てた。
その路線は天理軽便鉄道の中間部を横断する形になり経営に多大な影響を及ぼすことになる。
そんなことから大阪電気軌道に対し認可の条件として天理軽便鉄道に対する補償または買収を義務づけられていた。
こうして両者の間で交渉が続けられ1920年10月2日に買収金額は132,000円、
従業員は大阪電気軌道が引き継ぐこととして譲渡契約が結ばれた。
そして10月29日の臨時株主総会で付議し可決された。
譲渡申請は12月6日認可され、1921年1月1日より大阪電気軌道天理鉄道線となり、
開業後6年に満たず天理軽便鉄道は解散した。
(Wikipediaより)


回転脱穀機

※大きなラジオ

駅舎風景
汽車来ンなぁ〜

※平端駅のレールカー
ガソリン車輌(バスみたい)

終戦時にアメリカ軍撮影の
航空写真に残っていました。



とうしみうり
灯芯売り

※灯芯職図

和蝋燭



採墨道具

※灯芯引き台

米と藺草の二毛作だったんですね。

※鰻モンドリ
それで
今なら国産うなぎは
貴重品なのに…

田舟

※農業用扇風機
手回し〜〜

千歯こき
何でも手回し〜



※フゴ

井戸端ポンプTB型
東邦工業製
今でも作られていますね。

※大八車車輪
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も21年…今年こそエエ年に!
マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方
お休み〜残念!
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