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山里の道を もう少し奥へ〜 ※山際が整備されて〜 |
『日本書紀』によれば、壬申の乱が勃発したとき、根麻呂は大海人皇子の舎人であった。 6月24日に皇子が挙兵を決断して吉野宮を去り、東に向かったとき、 付き従う者はその妻子と舎人ら20数名、女官10数名しかいなかった。 書根麻呂はこの一行の中にいた。 無事に美濃国にたどりつき、兵力を集めた大海人皇子は、 7月2日に軍勢を二手にわけて、近江国に直行する部隊と 倭(大和国)に向かう部隊に進発を命じた。 書根麻呂は村国男依、和珥部君手、胆香瓦安倍とともに近江に向かう将となった。 彼等は7月7日に息長の横河で近江を破ったのを皮切りに、9日には鳥籠山で、 13日に安河浜で勝利を重ねて前進した。 17日には敵の本拠である近江大津京のそばで栗太の軍を破り、22日に瀬田に到達した。 この日の戦いで大友皇子が指揮した大軍は敗れた。 翌日大友皇子は自殺し、内乱は終結した。 (Wikipediaより) ※ |
史蹟 文祢麻呂墓 ※卒塔婆も〜 |
昔から渡来人が天皇の軍にも 参戦していたんですね。 ガラス製骨蔵器 ※史跡 文祢麻呂(ふみのねまろ)墓 (昭和59年4月5日 史跡指定) 文祢麻呂は、『日本書紀』、『続日本紀』にも登場する人物で、 壬申の乱(672年)では、大海人(おおあま)皇子(のちの天武天皇)の軍で 活躍した将軍の一人である。 天保2年(1831)に偶然、墓誌が入った銅箱、金銅壺などが発見され、 金銅壺の中には、火葬骨が入ったガラス製の壺(骨蔵器)が納められていた。 墓誌には、「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲4年歳次丁未9月21日卆」と 刻まれ、ここが慶雲4年(707年)に亡くなった文祢麻呂の墳墓であることが明らかとなった。 |
遠い故郷を想ったんでしょうか? ※なんで此処に〜 お墓を作ったんでしょうか? 文祢麻呂の故郷の山に似ていたんでしょうか? |
新緑で 山が綺麗な季節! ※沢城阯 伊那佐山から南東に延びる標高525mの山頂に造られた山城です。 城山(しろやま)と呼ばれている山上には本丸、二の丸、三の丸、 出の丸などの跡があり、平坦面、土塁や堀割りなどの遺構が残っています。 また、ふもとの沢地区内には、下城(しもんじょう)と呼ばれる 館跡(下城・馬場遺跡)もあります。 この城は、正平頃(1346〜1370)に「宇陀三将」のひとりである 沢氏の本城として造られ、天正頃(1573〜1592)に廃城となったようです。 永禄3年(1560)から永禄10年(1567)まで、 高山飛騨守図書(ずしょ)が城主となり、 高山右近も幼い頃、ここで過ごしたようです。 ポルトガル人の宣教師ルイス=フロイスの『日本史』にも記されたこの城は、 当時の遺構を残す貴重な中世(室町時代)城郭の一つです。 榛原町教育委員会 今回はパスしました。 |
脇には茅葺屋根が〜 ※ |
好きなんですわ〜 ※ |
里山風景も好きです! ※ |
トタン被せ家屋も〜 ※帰り道に〜 前に来た 大好きな郵便局を見に〜 |
近くに来たら また寄ります。 ※お疲れ様〜 帰りますね。。 |