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GWの大和路〜まださんと!
都祁から東吉野村へ〜
今回のGW前半戦は雨予報…では、六輪ポタで
いつもの旧村・神社廻り。。
古墳・天誅義士の墓・ニホンオオカミ終焉の地・佐吉作品〜
色んな出会いが!

榛原八滝(文祢麻呂墓) 21

昨年からの目標はフルサイズ!
フルメンバーは、中々時間が取れなくて・・・
大型連休、天気予報のズレが良い方向に〜
久々のまださんとタンデムポタ〜
だからいつもの路地探し。。。
相棒自転車はミニランちゃんとブロくん
丹波佐吉さんの作品を見に
大和の山際をブラリと〜〜


※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成28年05月03日
                                           UP日:平成28年08月22日

山里の道を
もう少し奥へ〜

※山際が整備されて〜

『日本書紀』によれば、壬申の乱が勃発したとき、根麻呂は大海人皇子の舎人であった。
6月24日に皇子が挙兵を決断して吉野宮を去り、東に向かったとき、
付き従う者はその妻子と舎人ら20数名、女官10数名しかいなかった。
書根麻呂はこの一行の中にいた。
無事に美濃国にたどりつき、兵力を集めた大海人皇子は、
7月2日に軍勢を二手にわけて、近江国に直行する部隊と
倭(大和国)に向かう部隊に進発を命じた。
書根麻呂は村国男依、和珥部君手、胆香瓦安倍とともに近江に向かう将となった。
彼等は7月7日に息長の横河で近江を破ったのを皮切りに、9日には鳥籠山で、
13日に安河浜で勝利を重ねて前進した。
17日には敵の本拠である近江大津京のそばで栗太の軍を破り、22日に瀬田に到達した。
この日の戦いで大友皇子が指揮した大軍は敗れた。
翌日大友皇子は自殺し、内乱は終結した。
(Wikipediaより)




史蹟 文祢麻呂墓

※卒塔婆も〜

昔から渡来人が天皇の軍にも
参戦していたんですね。
ガラス製骨蔵器

史跡 文祢麻呂(ふみのねまろ)墓
(昭和59年4月5日 史跡指定)
文祢麻呂は、『日本書紀』、『続日本紀』にも登場する人物で、
壬申の乱(672年)では、大海人(おおあま)皇子(のちの天武天皇)の軍で
活躍した将軍の一人である。
天保2年(1831)に偶然、墓誌が入った銅箱、金銅壺などが発見され、
金銅壺の中には、火葬骨が入ったガラス製の壺(骨蔵器)が納められていた。
墓誌には、「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲4年歳次丁未9月21日卆」と
刻まれ、ここが慶雲4年(707年)に亡くなった文祢麻呂の墳墓であることが明らかとなった。


遠い故郷を想ったんでしょうか?

※なんで此処に〜
お墓を作ったんでしょうか?
文祢麻呂の故郷の山に似ていたんでしょうか?

新緑で
山が綺麗な季節!

※沢城阯
伊那佐山から南東に延びる標高525mの山頂に造られた山城です。
城山(しろやま)と呼ばれている山上には本丸、二の丸、三の丸、
出の丸などの跡があり、平坦面、土塁や堀割りなどの遺構が残っています。
また、ふもとの沢地区内には、下城(しもんじょう)と呼ばれる
館跡(下城・馬場遺跡)もあります。
この城は、正平頃(1346〜1370)に「宇陀三将」のひとりである
沢氏の本城として造られ、天正頃(1573〜1592)に廃城となったようです。
永禄3年(1560)から永禄10年(1567)まで、
高山飛騨守図書(ずしょ)が城主となり、
高山右近も幼い頃、ここで過ごしたようです。
ポルトガル人の宣教師ルイス=フロイスの『日本史』にも記されたこの城は、
当時の遺構を残す貴重な中世(室町時代)城郭の一つです。
榛原町教育委員会

今回はパスしました。

脇には茅葺屋根が〜



好きなんですわ〜



里山風景も好きです!



トタン被せ家屋も〜

※帰り道に〜
前に来た
大好きな郵便局を見に〜

近くに来たら
また寄ります。

※お疲れ様〜
帰りますね。。
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も21年…今年こそエエ年に!
マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方、体調不良に家事・仕事にて
お休み〜残念!
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