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GWの大和路〜まださん・浮ドンと!
大和高田から法隆寺へ〜
今回のフルポタは、いつもの旧村・神社廻り。。
渡来人の足跡・伊勢神宮石燈籠・狛犬〜色んな出会いが!

大和高田(高田城) 02

昨年からの目標はフルサイズ!
フルメンバーは、中々時間が取れなくて・・・
大型連休、皐月晴れの青空の下…久々のまださん・浮ドンと〜
だからいつもの路地探し。。。
相棒自転車は片倉シルク号(昭和41年10月製)
伊勢参りの帰路は、奈良から大坂への山越しを避け
奈良からは、比較的平坦な大和の街道等を使い、
京都伏見を目指し、その後三十石舟(夜舟)で大坂八軒屋を目指した。
(桂米朝師 三十石夢乃通路 枕より)


※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成28年05月04日
                                           UP日:平成28年06月07日

大和高田駅前にて〜



駅前商店街

※ボチボチと行きましょか〜
ワンタッチの浮ドンは手持ち無沙汰。。。

平日なら駐輪場が大繁盛??



JRをアンダーパスして〜

※こっちですぜ!

此の先からは
川跡になります。



上の段の路地へ〜

※JR高田駅前の高砂町辺り

おお〜!
旅館のような銭湯

※エエ風情ですなぁと〜

多くの御札が〜
本日休み札も〜〜

※上の段の旧川跡街道

行ってみましょう〜

※色鮮やかな地蔵堂

JR沿いを〜

※小さな製薬屋さん?

駐車場向こうの路地

※駐車場も路地だったんでしょうね〜

何か寂しいJR高田駅前

※高校時代は単なる通過点だったと〜

まぁ行きましょう〜



小さなアーケード。。

※此処にも銭湯〜
中央温泉さん
破風が綺麗!

唯心院さん
山門

※立派な地蔵堂

中央温泉さんの
土管継煙突〜

※カンカン持って
風呂に行きましょか〜
と夕餉には聞こえそう。。

見返って〜

※先に進めませんなぁ〜

明治天皇御小休所之跡
西南の役直前の風雲急を告げた時期に
初めて来られたとか〜
 

全国巡行時を思い
昭和12年に建てられたとか。

※左は明治期には工場

先の木も気に成りますが〜
玉垣も〜

※昔の町割りの名残

大阪だったら蓋付きに
するんでしょうが〜

※踏切向こうの
先の木も気に成りますが〜

八幡神社サン
伊福寺跡看板
中世には興福寺の末社だとか。
寺城内に祀られていた八幡神社の
神宮寺?

神社正面

※玉垣奉納碑

拝殿舎
枝も切られて明るい境内

※お百度石

手水鉢

※真新しい
本殿舎

奉納絵馬
ヤマタノオロチ

※玉垣に寄りかかって〜

JR和歌山線

※呼んでますが〜 

北側も気に成りますが…

※南へ向かいます〜

此処にも本家せんじ薬
前に行った御所のように〜

※葛城の峰から生薬が来たんでしょうか?

袖壁・千本格子・引き戸
好きなモノばかり〜

※初瀬街道に〜

見返れば…浮ドン
せんじ薬に気がかりで〜

※初瀬街道

蓋付き路地

道標も〜
左:伊勢道

※踏切渡って初瀬街道東へ〜

踏切土台

※先は御所に和歌山に〜



※お二方呼んでいます。。

初瀬街道沿いの
太神宮(お伊勢さん)の高燈籠
おかげ参り時には数万人の方が狂喜乱舞して
通ったとか〜

※試合終わりの甲子園球場近く状態?
ほお〜っと…

今では、ひっそりと〜

※よく見えたんでしょうか?
裾には高田文字

皇紀2600年碑

※魚屋さん

爽やかなエエ天気のもとで〜

※気になるところへ
ショートカット

此処を曲がりました〜

※常光寺さんの大屋根横目に〜

ん?公園??
と思えば〜

※高田城址
室町時代後期、各地に有力武士が城を築き、覇権とその勢力範囲を広げるために、
各地で合戦が繰り広げられた、戦国時代と言われた時代。
本市にも、高田城、万歳城、そして土を重ねて築いた小城の土庫塁城、松塚塁城、有井塁城、北角塁城がありました。
高田城は、片塩小学校の東側、常光寺池一帯にあったとされ、永享4年(1432年)、
室町幕府六代将軍・足利義教の命により、当麻氏が城主に任じられています。
その後、約150年間にわたり、戦国武士が群雄割拠した時代に重要な砦としての役割を果たしました。
当麻為長が城主の時、城に隣接して、一族の武 運長久と歴代の菩提をとむらうため常光寺を建立(1471年・旭北町)し、
また、天神社の修復(1482年・三和町)、証菩提寺(現在の不動院)の建立 (1484年・本郷町)もおこなっています。 
万歳城は、高田西中学校一帯に位置し、「万歳氏」の居城の一つとして、二上山の南方にあった万歳山城と、
現在大谷(北角)の乾城とともに、その勢力の拠点としていました。
しかし、天正5年(1577年)、郡山の筒井順慶は織田信長に大和守護に任じられ、大和一円をゆだねられると、
天正8年(1580年)、諸城破却令により順慶の郡山城を除いて、大和の城はすべて取り壊されてしまいます。

「高田氏」、「万歳氏」など、それぞれ大和武士としてその勢力争いを頻繁におこしていましたが、
戦国大名となることなく、戦国争乱の世に、その姿を消してしまいました。 
この時代、曽大根の名称寺からも石山本願寺の顕如率いる「一向一揆」、いわゆる「石山合戦」(1570年〜)に出兵し、
織田信長軍と戦ったことなどからも、戦乱の時代をうかがうことができます。
(大和高田市HPより)


大きなケヤキ
 
※横は市立片塩小学校

顕彰碑



碧空の下
大きな樹の向うに二上山

※一休み

玉垣に〜

※當麻氏玉垣

初めは、城跡とは思わなかったです〜

※椋?

和歌山線がゴトゴトと〜

※地下道が通学路〜




小学校は大きな池だったんですね。

※市立片塩小学校
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も21年…今年こそエエ年に!
マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方、体調不良に御仕事にて
お休み〜残念!
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