前から気になっていた所へ〜
葛城川渡って〜
※燕も来てました。
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向こうに耳成山が〜
※あの森へ〜
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明治期には墓地が
此処に有りました。
※条里制圃場も
田興前
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梨の木でしょうか?
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街道沿いだったんでしょうか?
※太神宮燈籠
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玉垣は御成婚記念
※千本格子綺麗です。
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脇に作業場碑
寄贈 朝鮮 松井栄治
何の作業場でしょうか??
※脇には石臼
菜種を絞ったんでしょうか?
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途中で折れてます。
※二條の路地
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ねっ、残してくださいね。
でも、昭和19年って終戦間近。。。
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防火用水では無いですよね〜
線香台?
※いざ!
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ジャスミン咲路地!
※トタン被せも〜
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百済寺の伽藍が〜
※此処も環濠?
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止まってウットリと〜
※京都みたいな風景と…
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ねぇ〜
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防火用水
※
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此の浅さでは生活用水用?
※先へ〜
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土蔵も背伸びして〜
※百済村二條の路地
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百済寺が〜
※立派な燈籠
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駐車場も完備されて〜
奈良は無料なんですよ!
百済寺の創建の時期・経緯等は明らかでない。
寺は三重塔と小さな本堂を残すのみで、隣接する春日若宮神社によって管理されている。
伝承によれば、この寺は聖徳太子建立の熊凝精舎を引き継いだ百済大寺の故地であるという。
百済大寺とは、7世紀前半に創建された官寺で、再度の移転・改称の後、
平城京に移転して南都七大寺の1つ大安寺となった。
『日本書紀』舒明天皇11年(639年)7月条に舒明天皇が
「今年、大宮及び大寺を造作(つく)らしむ」と命じた旨の記事があり、
大宮と大寺は「百済川の側(ほとり)」に造られたという。
この百済大宮と百済大寺の所在地を広陵町百済に比定する説は古くからあり、
江戸時代の延宝9年(1681年)成立の地誌『和州旧跡幽考』も当地を百済大寺の旧地としている。
(Wikipediaより)
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しかし、当地における「百済」の地名が古代から存在した証拠がないこと、
付近から古代の瓦の出土がないこと、飛鳥時代の他の宮(岡本宮、田中宮、厩坂宮など)の
所在地が飛鳥近辺に比定されるのに対し、百済宮のみが遠く離れた奈良盆地中央部に
位置するのは不自然であることなどから、この地に百済大寺が所在したことは
早くから疑問視されていた。
1997年以降、桜井市吉備(安倍文殊院の西方)の吉備池廃寺の発掘が進むにつれ、
伽藍の規模、出土遺物の年代等から、この吉備池廃寺こそが百済大寺で
あった可能性がきわめて高くなっている。
現・広陵町の百済寺は、室町時代には多武峰領となっていた。
江戸時代初頭の慶長年間(1596 - 1615年)には6坊を数えたが、
江戸時代後期の天保年間(1830 - 1844年)には中之坊と東之坊の2坊を残すのみであった。
(Wikipediaより)
※鎌倉中期の作とか
(昭和5年解体修理)
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木鼻も垂木も
美しく〜
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戦役記念碑
※明治37・8年
日露戦争ですね。
多くの方々が出征されて。
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春日若宮神社扁額
※鳥居は皇紀2571年銘
森本千吉銘
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神宮寺なんですね。
※相輪
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文化財は大切に!
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猫のような狛犬
阿
※吽
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百度石
※稲荷社
献灯は森本為吉銘
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裏の鳥居も
明治41年
森本千吉銘
※迎田神社
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神社と寺院の境目は?
※三日月神社
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春日神社
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熊野大神社
※春日神社
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天満神社
※拝殿舎
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お邪魔しますと〜
※手水鉢
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拝殿舎内
※山部赤人歌碑
百済野の 萩の古枝に 春待つと
居りし鴬 鳴きにけむかも
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スタンダード狛犬
阿
※吽
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三重塔
裏側から〜
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新子の集落
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東側から〜
※梨の木越の三重塔
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水路を見たら
環濠に思えます。
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土蔵
※道路は直線で〜
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鏡遊び
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南向いて〜
※太神宮燈籠
玉垣に祝七〇歳銘
ご長寿記念
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土蔵がコナレ過ぎて〜
※路地は浅く
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屋門
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