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GWの大和路〜まださん・浮ドンと!
大和高田から法隆寺へ〜
今回のフルポタは、いつもの旧村・神社廻り。。
渡来人の足跡・伊勢神宮石燈籠・狛犬〜色んな出会いが!

三宅,屏風(杵築神社) 25

昨年からの目標はフルサイズ!
フルメンバーは、中々時間が取れなくて・・・
大型連休、皐月晴れの青空の下…久々のまださん・浮ドンと〜
だからいつもの路地探し。。。
相棒自転車は片倉シルク号(昭和41年10月製)
伊勢参りの帰路は、奈良から大坂への山越しを避け
奈良からは、比較的平坦な大和の街道等を使い、
京都伏見を目指し、その後三十石舟(夜舟)で大坂八軒屋を目指した。
(桂米朝師 三十石夢乃通路 枕より)


※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成28年05月04日
                                           UP日:平成28年06月07日

飛鳥川支流

※水門脇の地蔵様

太子道

※屋門は・・・

スミマセン〜西日で…

※忍性菩薩御誕生之地碑
忍性(にんしょう、建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、
鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧である。房名(通称)は良観。
貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られる。
大和国城下郡屏風里(現奈良県磯城郡三宅町)に生まれる。

安貞元年(1227年)信貴山朝護孫子寺で文殊の五字呪を唱える(文殊菩薩信仰)。
貞永元年(1232年)死の床にあった母の懇願により、大和国額安寺に入って出家し官僧となる(官度)。
三大文殊の一つ安倍寺(安倍文殊院)に参詣する。
天福元年(1233年)東大寺戒壇院にて受戒する。
以後、文殊菩薩の化身と信じられていた行基ゆかりの竹林寺などで修行を重ねる。
嘉禎2年(1236年)7日間の断食を3度おこない文殊の五字呪を50万回唱える。
延応元年(1239年)叡尊が主導していた西大寺の再建に勧進聖として加わり、
叡尊に惹かれて再度叡尊の下で受戒してその弟子となる。生駒に参籠し文殊を祈願する。
仁治元年(1240年)改めて額安寺で出家の儀式をやり直し、西大寺に入寺し叡尊教団に身を投じている。
この頃、額安寺周辺の非人宿で文殊図像の供養をおこなう。
寛元元年(1243年)奈良の般若寺近辺に北山十八間戸創設。初めて関東に赴いて仏教事情を調査する。
寛元2年(1244年)文殊供養をおこない、非人に施粥をおこなう(亡母13回忌追善供養)。般若寺に丈六文殊像を安置。
寛元3年(1245年)家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)をうける。
宝治元年(1247年)同門の定舜が宋から持ち帰った律書(律三大部十八具)を受け取るために九州に下る。
建長4年(1252年)本格的な布教活動のために関東へ赴き、常陸三村寺(御家人八田知家の知行所。現在は廃寺)を拠点に、
当時常総地域に広がっていた内海の舟運を利用しつつ布教活動を行い、鎌倉進出の地歩を固める。
正元元年(1259年)北条重時の招聘に応じ、鎌倉に隣接する極楽寺の寺地を相す。
弘長元年(1261年)北条時頼・北条重時・北条実時らの信頼を得て鎌倉へ進出。
北条重時の葬儀を司り、最初は釈迦堂(現在は廃寺)に住む。
弘長2年(1262年)北条時頼の要請により東下してきた叡尊に謁する。病気がちの叡尊に代わり授戒をおこなう。
鎌倉の念仏者(浄土教系)の指導者念空道教が叡尊に帰依したことで、忍性が鎌倉の律僧・念仏僧の中心的人物となる。
弘長4年・文永元年(1264年)鎌倉雪ノ下で非人3000人を救済する。
文永2年(1265年)灌頂を受けて阿闍梨となり、戒密兼修をすすめる。
文永4年(1267年)極楽寺開山となる。清凉寺式釈迦如来立像を安置する。
文永6年(1269年)江ノ島で祈雨の法をおこなう。
文永8年(1271年)日蓮から祈雨法くらべと法論を挑まれるが、負ける。
文永9年(1272年)衆生救済のために10種の誓願をたてる。
文永11年(1274年)飢饉がおき飢えた人々に大仏谷で粥を施す。
建治元年(1275年)極楽寺炎上、堂塔灰燼に帰する。摂津多田院(現・多田神社)別当に就任し復興に努める。
弘安4年(1281年)弘安の役に際し幕府から御教書が下されて異国退散祈祷を行う。多田院本堂供養に際し周辺の山河を殺生禁断とする。
弘安6年(1283年)病者に療養を施す。
弘安7年(1284年)永福寺・五大堂(明王院)・大仏(高徳院)の別当(責任者)に任命される。祈雨の法をおこなう。
弘安9年(1286年)幕府から御教書が下されて祈雨の法をおこなう。
弘安10年(1287年)極楽寺金堂落慶供養がおこなわれる。幕府の後援を受け鎌倉桑ヶ谷の病屋に病人を集める。
以後20年間に46800人を治療したという。
正応元年(1288年)西大寺で叡尊に謁する。叡尊から改めて灌頂を受ける。
永仁元年(1293年)院宣により異国調伏を祈願する。東大寺大勧進に任命される。
永仁2年(1294年)摂津・四天王寺別当に任命され、悲田院・敬田院を再興し石の鳥居を築造する。[4]
永仁6年(1298年)律宗の祖鑑真を顕彰する東征伝絵縁起を唐招提寺に施入。鎌倉坂の下に馬病舎を建てる。極楽寺に真言院を建てる。
正安2年(1300年)極楽寺の一部炎上。
正安3年(1301年)祈雨の法をおこなう。
嘉元元年(1303年)祈雨の法をおこなう。極楽寺において87歳で死去。遺骨は大和国竹林寺・額安寺にも分骨された。
嘉暦3年(1328年)後醍醐天皇より忍性菩薩の尊号を勅許された。(Wikipediaより)

 
川向う〜

※家屋門

集落入口

※地蔵尊

ライオンズクラブさん
お疲れ様〜



行きたいがなぁ〜
時間が…
西側は前に

※行きまっせと…

酒屋さん

※キョロキョロしながら。

太子道沿いの
此処も杵築神社サン

※太鼓橋も〜

お邪魔して〜



牛頭天王社銘
燈籠〜

手水鉢

※拝殿舎

御百度石

※遥拝所
伊勢神宮?

賽銭箱

※矢尻丿井碑

屏風の清水
聖徳太子が此の地できゅうけいされ、
従者(調子麿)の持つ弓をとって地を打ち掘られると
冷水が湧き出た。


※本殿舎

本殿舎前狛犬

※武者絵絵馬

慶応四年銘(1868)
おかげ踊り絵馬

※女性の武者絵
巴御前?

境内摂社

※窪地は池跡??

扁額

※明神橋ですと!

杵築神社の太子道挟んで〜
忠魂碑

※日露戦争と大東亜戦争に
大字屏風・三河の戦没された
方々の名前が彫られています。

忠魂碑の脇に鳥居が…
聖徳太子腰掛けの石と
太子像〜

※太子をもてなすときに屏風を立てて
風を防いだ事から名付けられたとか〜


太子道を往く聖徳太子像

※ずんぐりとした馬

腰掛石
前には

※大切に祭られて〜

三宅町マップ
by教育委員会

※此の台座は?
太平洋戦争中に昔の造像を供出したとか〜
『和を以て貴しとなす』…戦争は嫌ですね。。。
台座は使えが良かったのに…

狛犬も〜

手水鉢
盃状穴は無い

※水準点

神社からは寺川支流?
名は??

※見返って〜

寺川堤の桜並木

※ん?学校〜

川西町三宅町式下中学校組合立式下中学校(長い!)
川西町および三宅町の全域が校区。
所在地は川西町結崎と三宅町屏風の境界部分の太子道沿いにある。
校舎部分は川西町に、運動場やプール、体育館のアリーナ以南の部分は三宅町である。
(Wikipediaより)

※寺川渡って〜
先へ!
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も21年…今年こそエエ年に!
マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方、体調不良に御仕事にて
お休み〜残念!
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