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第二寝屋川沿いに〜 ※木村重成公墓所 |
公園内に〜 ※前に〜 |
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として 長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、 井伊軍との戦闘の末に戦死した。 首実検でその首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったので、 その覚悟を感嘆させたという逸話が残っている。 その後、首は重勝が密かに彦根まで持ち帰り、安藤一族の菩提寺である宗安寺に埋めたとされ、 同寺院には木村重成の首塚がある。 大阪方諸将の墓碑の建立は認められていなかったため、重成の遺体は同じく 若江の戦いで戦死した山口重信の墓の隣に葬られ、目印として2本の松の木が植えられた。 享保15年(1730年)に重信の墓を訪れた儒家の並河五一は墓碑もない重成の扱われ方を憐れみ、 訴願して墓を建立したという。 五一の建立した墓碑は現存していないが、その後150忌にあたる宝暦14年(1764年)に、 安藤家の子孫によって幕府公認の墓が建てられた。 現在、墓は第二寝屋川の南側、大阪府八尾市幸町の公園にある。 重成の死から200年以上経った文政11年(1828年)に、重成の墓に参拝するブームが突如として発生し、 大坂町奉行が沈静化に乗り出す騒ぎとなった。 大阪の市井の人々は重成の墓を「残念墳」、重成を「残念様」と呼び、 願をかけると願いが叶う神として親しんだ。 (Wikipediaより) ※ |
手水鉢 ※第二寝屋川挟んで〜 若江南墓地 |
山口 重信(やまぐち しげのぶ、天正18年(1590年) - 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は江戸時代の武将。 山口重政の長男。母は小坂雄吉の娘。正室は石川康通の娘(あるいは石川忠義の娘)で大久保忠隣の養女。 幼名は熊丸、長次郎。 尾張国清洲で誕生。慶長2年(1597年)に徳川秀忠に謁見する。慶長14年(1609年)12月27日、従五位下、 伊豆守に叙任。その後、大久保忠隣の養女を正室に迎えたが、 その縁談が正式な幕府の許可を受けていないものとされたため、 慶長18年(1613年)1月6日に父・重政は改易され、父と共に武蔵国入間郡越生庄の龍穏寺に蟄居させられた。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に伴い戦功を立てようと父と共に大坂に向かうが、 箱根の関所で止められたため一旦龍穏寺に帰った。 そして、関所の通過が容易な商人に扮装し、東山道経由で大坂に赴くが、 既に和議が成立していたため再び龍穏寺に帰った。 そして翌年の大坂夏の陣では井伊直孝の軍に属して奮戦するが、 八尾・若江の戦いで木村重成に討ち取られて戦死。享年26。法名は傑山宗英大雄院。 (Wikipediaより) ※ |
前に〜 ※ |
玄武ですかね? ※少し東に〜 |
顕彰碑 |
北村善蔵氏の功績 ※昭和45年銘 |
市営西郡住宅 何だか懐かしい〜 ※有名選手も出ました〜 |