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令和元年、2019年の5月GWの2発目は〜
やっぱり奈良が好き!

八重桜は満開!〜山笑う〜大和朝廷の名残…
田植え直前の里山風景〜
今ですよ今!
有名人の足跡も…へぇ〜
高取町下土佐 01

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し〜

行きは近鉄にて帰りはJRで輪行ポタ〜相棒自転車は…プー太!

皆様方はブロ君3台!!!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和元年05月04日
                                           UP日:令和元年09月30日

JR東線野江駅
此処から今日は始まります。

※俊徳道で近鉄に乗り換え〜
壷坂駅到着!

集合時間には早めで…
浮ドンも早い目の電車。。

※さて〜

高校時分と同じ駅前風景〜

※大正12年、当時の吉野鉄道が
吉野口-橿原神宮前間を開通させた際に開業。
現在は近畿日本鉄道吉野線となっている。
(高取町観光協会HPより)


R169は、あの日のまま〜
昔は通過点でしたが…

※旧道からの参道

天照大神宮
富士山銘
燈籠

※大峰山の銘も〜

土佐街道

この石畳は、阪神大震災の復旧工事で出てきた
路面電車(2号線にあった阪神国道電車跡)
の敷石が利用されている。
(高取町観光協会HPより)


※少し街道沿いの街並みを散策し〜

多くの石材が使われています。

※湯川家住宅
湯川家住宅は旧観覚寺村の北端付近にあり、この辺りは町場の北端に位置し、
農村的性格を兼ね備えていたと考えられる。
主屋は街道から少し後退して建てられ、平屋建て、切妻造、桟瓦葺である。
上家の壁面は、土壁で塗り込めた大壁造で、虫籠窓は無く、上屋大棟は青海波積にしている。
居室部の前面には庭を造り、主屋出入り口左手から前庭を囲むように塀を立て、
街道・出入り口間に向かって塀重門を開けている。
(看板より)


湯川家住宅

※皆様方が到着するまで
下見ポタ

南方面へ〜

※街並み保存

空き地が気に成りますが〜

※光永寺さん

高取城に向かっては
緩やかな上り坂〜

※味噌醤油屋さん

トタン被せ家屋も〜



路地も魅力的に〜

※ノンビリと〜

瓦斯溶接看板

※何やろか?
と、思えば〜
自転車屋さん
昔の自転車屋はフレームや荷台の修繕や製作で
ロー付けは当たり前でしたと
平野の田川さんに御話を伺ったものです〜
01 02 03

土佐街道まちなみ作法 七つの心得
自主的なルールとか〜

※ルールに乗っといて〜
電柱が…

生薬屋さんの町
陀羅尼助の由来は、強い苦みがあるため、僧侶が陀羅尼を唱えるときに
これを口に含み眠気を防いだことからと伝えられる。
陀羅尼助は和薬の元祖ともいわれ、伝承によれば、
1300年前(7世紀末)に疫病が大流行した際に、
役行者(役の小角)がこの薬を作り、多くの人を助けたとされる。
古くは吉野山(吉野町)および洞川(どろがわ、天川村)に製造所があり、
吉野山や大峯山への登山客、行者参りの人々の土産物となっていた。

丸薬状にしたものは、陀羅尼助丸であるが、服用のし易さから
現在ではこちらが製造の主流となり入手が容易である。
(Wikipediaより)



可愛いmy橋が〜



ん?

※高取町道路元標

ええなぁ〜

※つし二階建て連子格子窓も〜
木、竹、金属などを直角に碁盤目(ごばんめ)に組んだもの。
組格子ともいう。古くは子(かくし)とよんだ。
建具では蔀(しとみ)や引違い戸、あるいは嵌殺(はめころ)しとして用いられた。
桟の間を透かすものや、裏に薄板を張るものもある。
本来、格子は碁盤目に組み、これを狐(きつね)格子というが、
一般には竪桟(たてざん)を密にし横桟を粗くしたものも格子とよぶ。
竪桟あるいは横桟だけのものを連子(れんじ)といい、前者を竪連子、後者を横連子という。
連子も中桟を入れることもある。連子を板に彫り出して形式的にしたものを盲連子(めくられんじ)という。
格子は近世になって採光通風と盗難防止を兼ねて、民家の正面に盛んに取り付けられた。
格子は形式によっていろいろの名称がある。
京都の町屋にみられるような竪子(たてこ)の細く横桟の少ない京格子、
太い角材を並べた問屋(といや)格子、丸太を半割りにして丸みを正面にみせる丸太格子、
細い格子を密に並べた江市屋(えいちや)格子、千本格子、
1本あるいは2本置きに長短の竪桟を交互に入れた親子格子、
横桟の間に取り外せる小格子を入れた大阪格子など、その種類は多い。
(コトバンクより)


残して欲しいですね!

※アルミサッシは
なるべくNGで〜

W的場!
前には

※乳華
蘇(そ)は、古代の日本で作られていた乳製品の一種である。
文献には見えるが製法の失われた食品となっている。
平安貴族階級の間で乳製品が広まったが、武士が台頭して来るにしたがって廃れ、
江戸時代中期まで日本の酪農は廃れる。
文武天皇が(700年)に蘇を税として全国で作るように使いが派遣された。
典薬寮の乳牛院という機関が生産を担っており、薬や神饌としても使われていた。
仏教祭事には蜜と混ぜられて原料として使用された様子である。
現代では、文献を元に様々な人が蘇を復元しようとしているが、
原料乳の生産牛種も不明でそれが本当に当時の蘇と同じものか、
現存しないので確認は困難である。
(Wikipediaより)


妻入り蔵も〜

※望郷の想いむなしく役夫らの
せめて準う土佐てふその名
土佐町の由来
六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、
古里土佐国を離れこの地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには、
朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と
名付けられたと思われる。
故郷を離れて生きて行く生活を余儀なくされた人達の
たった一つの自由な意思は古里の名を今の場所につけることであった。 
古代、中世を経て近世に入り植村氏が高取城に入部後、
山上の高取城では日常生活が何かと不便なため、藩主をはじめ家臣の屋敷は
街道筋に移された。
次第に土佐はその城下町として政治・経済・産業の中心となり、町筋には商家が
立ち並び伊勢屋、池田屋、観音寺や、さつまや等が名を連ねた。細長く続く道筋は、
往時の面影を残し、せせらぎの音は訪れる人の心を癒してくれる。
毎年開催されるお城まつりには、高取土佐時代行列がある。
(看板より)


街道脇に丸ポストも〜

※街の駅
城跡
旧臼井家(伊勢屋)が在ったんですね。
見たかったなぁ〜

札の辻
高札場が有ったんですと。
先は高取城〜



高取イラストマップ
右 観音院道
山の中に観音院跡が〜

※駅へ引き返します〜

右 吉野道
紀伊路

清酒 金剛力
前には



駅前に帰ってきました。
ハイキングの方々も〜

※観光と薬の町
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜
東日本大震災は8年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。
阪神大震災も24年…今年こそエエ年に!
平成末は北大阪大震災・豪雨・台風被害
令和初年は台風15号被害に胸が痛みます。
遂に天皇陛下は年下に〜
消費税も10%に!!
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