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令和八年、2026年は魔夏~涼しい所へ行こう!
丹生都比売神社、高野山、
小学校の林間学校思い出します。

全国の丹生神社元社、高野山の開山逸話
今ですよ今!
前には~01
有名武将の墓所、前畑頑張れ!とまことちゃん…
ほぉ~と感嘆が漏れます。
005和歌山県伊都郡高野町高野山奥の院03~07

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
6輪ポタで~相棒自転車は…歩きポタに変更します。
浮ドンとまだサンと~!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和八年07月26日
                                           UP日:令和八年08月10日

伊達 政宗(だて/いだてまさむね)は、出羽国(山形県)と陸奥国(宮城県・福島県)の武将・戦国大名。
伊達氏の第17代当主。近世大名としては、仙台藩(宮城県・岩手県南部)の初代藩主である。
伊達政宗が「独眼竜」のあだ名で呼ばれるのは、江戸時代後期の儒学者・頼山陽の賦した漢詩にまで遡る。
山陽の没後、天保12年(1841年)に刊行された『山陽遺稿』に収められた「詠史絶句」15首の一つに、
政宗に題をとったものがある。天保元年(1830年)の作とされている。
(Wikipediaより)


※蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
豊臣秀吉の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩主蜂須賀家の家祖。
初名は利政。通称は小六(ころく)もしくは小六郎(ころくろう)、
後に彦右衛門(ひこえもん)と改名しているが、『太閤記』の役名である
蜂須賀小六の名で広く知られている。官位は従四位下、修理大夫。
(Wikipediaより)


観世音菩薩

向こうの社は?

※上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、
戦国時代に越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配した武将・大名。
初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。
関東管領・上杉憲政の養子となり、山内上杉氏の家督を譲られ、上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、
同家が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継いだ。
後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には輝虎と名乗った。
謙信は、さらに後に称した法号である。
正式な姓名は、藤原 輝虎(ふじわら の てるとら)。
後世においては「敵に塩を送る」の逸話など、私利私欲に拘泥しない義の武将として知られる。
一方で、のちの研究においては、利害を冷徹に判断しながら領土拡大に努力した
戦国大名とする研究者が多い。
(Wikipediaより)

説明板

※脇の菩提所
清浄心院

沢山の有名人墓所

※壊れているのも有ります。

この墓所は?
豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、旧字体: 豐臣 秀賴)は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。
秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子(淀殿と秀吉の子かは異論がある)。
子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。
成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。
位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。
なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。
乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。
また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。

秀頼は父・秀吉の意思を継ぎ、秀吉の発願した高さ約19mもある方広寺大仏(京の大仏)及び、
それを安置する大仏殿の再建を進めた。
しかし、同寺院に納める梵鐘の鐘銘を巡り方広寺鐘銘事件が発生し、
徳川氏の江戸幕府と交戦することになった(大坂の陣)。
この頃にはもはや徳川氏の優位が確立しており、世の趨勢を覆すには至らず、
冬と夏の両陣を経て、大坂城が落城し秀頼は自刃。これにより豊臣氏(羽柴宗家)は滅亡した。
秀頼は生前に、戦乱で荒廃していた多数の寺社に寄進を行い、伽藍や社殿の再興を図った。
彼の寄進で造立された建造物には、東寺金堂や北野天満宮社殿などがあるが、
今日国宝や重要文化財に指定されているものが多く、
秀頼の文化的事業に対して一定の評価が与えられている。
(Wikipediaより)

※秀頼・淀君の供養塔
淀殿(よどどの、永禄12年〈1569年〉? - 慶長20年5月8日〈1615年6月4日〉)は、
戦国時代から江戸時代初頭の女性。実名は茶々(ちゃちゃ)。
豊臣秀吉の妻で、側室または複数の正室の一人(後述)。浅井三姉妹の長女。
近江国の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・市の間に生まれ、同母妹に初(常高院、京極高次正室)と
江(崇源院、徳川秀忠正室)がいる。
父は信長と対立して敗死、母の再婚相手の柴田勝家も豊臣秀吉に敗れ市・勝家は自害した。
その後三姉妹は秀吉の庇護を受け長女の淀殿はその妻の一人となった。
秀吉との間には棄(鶴松、夭折)と拾(秀頼)が生まれ、姪の完子を猶子として育てた。
秀吉の死後は幼い秀頼の後見として大坂城に住み、京都に住んだ高台院とともに
豊臣家を支える立場となったが、大坂夏の陣に敗れ秀頼とともに自害した。
本名は浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)との主張もあるが実証的証拠はない。
(Wikipediaより)

ヒグラシの啼く初夏の杉木立
不思議な感じです。

※總持院

武田信玄墓所
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、
戦国時代の武将。甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の第19代当主。武田氏の第16代当主。
諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。
表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。
甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男だが、
兄に竹松がいるため長男ではなく次男である。

※先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、
信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と
五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、
甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。
次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。
西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。
(Wikipediaより)

姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。
藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田家で、のち譜代大名が転々とした末に、
1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏で続いた。
石高ははじめ52万石、のち15万石。
(Wikipediaより)

※泉州 南部家墓所

豊前中津 奥平家
奥平 昌成(おくだいら まさしげ)は、江戸時代中期の大名。
下野国宇都宮藩主、丹後国宮津藩主を経て、豊前国中津藩の初代藩主。
中津藩奥平家5代。



加島屋(かじまや)とは、江戸時代の大坂の豪商。
玉水町(現・大阪市西区江戸堀1丁目)の久右衛門家(廣岡姓)と、
大川町(現・大阪市中央区北浜4丁目)の作兵衛家(長田姓)の2系統があった。
加島屋を源流とする企業である大同生命の社史『大同生命七十年史』(1973年)によると、
加島屋を興した廣岡家は村上源氏に連なる赤松家を遠祖とし、
戦国時代には摂津国川辺郡東難波村(現・尼崎市東難波町)に移住したとされる。
加島屋の創業は1625年(寛永2)年とされている。
廣岡九兵衛家の次男に生まれた廣岡冨政(1603-1680)が、
大坂で加島屋久右衛門(加久)を御堂前に創業した。
加島屋の屋号は、冨政が加島屋五兵衛に奉公にあがり、のれん分けを受けたことに因む。
1925年(大正14年)、代々加島屋の本宅があった地に大同生命ビルディングを竣工し、
加島銀行本店・大同生命本社などが入居する。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計による総工費約300万円を投じたこのビルは、
堂島ビルヂング、大阪ビルヂング(旧ダイビル本館)とともに大大阪を代表する百尺ビルとして親しまれた。
(Wikipediaより)



工芸品の様に~
龍泉院墓所

※墓所と思えば~
町石20町

江崎グリコ
昔我が祖母が本工場の近くに住んでいて
よく社長さん見たわ!と話してました。

※羽後秋田 佐竹家墓所
羽後国(うごのくに)は、東北戦争終結直後に出羽国を分割し制定された、
日本の地方区分の国の一つ。東山道に位置する。
別称は羽前国とあわせて、または単独で羽州(うしゅう)。
領域は秋田県のうち鹿角市と小坂町を除いた大部分と、山形県の飽海郡、
同じく山形県の酒田市の最上川以北部分にあたる。
(Wikipediaより)

墓標

※扇紋

山口毛利家墓所
毛利氏(もうりし)は、武家・華族だった日本の氏族。本姓は大江氏。
家紋は一文字に三つ星(一文字三星)。
大江広元の四男で相模国毛利荘を領した鎌倉幕府の御家人・毛利季光を祖とし、
子孫は越後国と安芸国に分かれた。
安芸毛利氏は戦国時代に西国の覇者と呼ばれた戦国大名毛利元就を出して
安芸を中心に中国地方(山陽道・山陰道)10カ国を領し、
江戸時代には長州藩主として長門国・周防国を領し、維新後は華族の公爵家に列した。
(Wikipediaより)

※沢山の墓石が~

佐竹 義重(さたけ よししげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
常陸国の戦国大名。佐竹氏第18代当主。
北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。
領内の金山に最新の冶金技術を導入して豊富な資金力を実現した。
関東一の鉄砲隊を備えたという。
(Wikipediaより)



説明板

※檜皮葺屋根が二段に成っている~

刻銘~



細かい意匠が~



山口毛利家の裏側に~
玉垣崩れてる~

※ 岡部家
岡部 長職(おかべ ながもと、
1855年1月4日〈嘉永7年/安政元年11月16日〉- 1925年〈大正14年〉12月27日)は、
和泉国岸和田藩の第13代(最後)の藩主。
明治・大正時代の政治家・外交官。英国公使館参事官、外務次官、司法大臣、東京府知事、
枢密顧問官、法律取調委員会会長などを歴任。
岸和田藩岡部家14代。官位は正二位勲一等子爵。
(Wikipediaより)

前に狛犬


※吽

有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名。
肥前国日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。
キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。
(Wikipediaより)

大阪法密講

※句碑

一体いくつ墓標が有るんでしょうか?

※薩摩島津家墓所
薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代の藩。
藩庁は鹿児島城(鹿児島市)、藩主は島津家。

薩摩・大隅の2か国および日向国諸県郡の大部分(現在の鹿児島県本土と宮崎県の南西部)を
領有し、琉球王国(現在の奄美群島と沖縄県)が服属した。
(Wikipediaより)


司馬遼太郎文学碑
高野山管見
墓所は?

※前田家墓所
加賀藩(かがはん)は、江戸時代に存在した藩。
加賀、能登、越中(現在の石川県・富山県)の3国の大半を領し、102万5000石を知行した。
藩祖・前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、
芳春院の化粧料だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。
藩庁は加賀国石川郡にあった金沢城(金沢市)。
明治2年(1869年)の版籍奉還後には藩名を金沢藩と定められた。
(Wikipediaより)

伊予宇和島伊達家墓所
宇和島藩(うわじまはん)は、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)周辺を治めた藩。
藩庁は宇和島城に置かれた。
慶長19年(1614年)12月28日、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、
慶長20年(1615年)3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城したことから、
宇和島藩が正式に成立した。
秀宗は戦国の世に「独眼龍」と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子である。
秀宗ははじめ政宗の世子であったが、天下の覇権が豊臣家から徳川家に移り、
また政宗と正室愛姫との間に忠宗が生まれたこともあって、秀宗はその立場が問題になった。
このため、政宗は徳川家に秀宗の身が成り立つように嘆願し、
大坂冬の陣で政宗と秀宗がともに徳川方として従軍すると、幕府は政宗の戦功と
秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えた。
宇和島藩伊達家は仙台藩の支藩ではなく新規に国主格大名として取り立てられ、
秀忠より「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶ」ように命じられた。
ただし、幕府の有力外様大名統制政策の一つで伊達家を東西に分断し、
また豊臣家に近い秀宗を僻遠の四国に遠ざける必要があったため、ともされている。
(Wikipediaより)


※奥州伊達家墓所
仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代から明治初期にかけて陸奥国仙台城に藩庁を置き、
外様大名の伊達本家が治めた藩である。
伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。表高は62万石であり、所領として現在の宮城県全域、
岩手県南部および福島県新地町計約60万石を一円知行で治め、
現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があったが、戊辰戦争後に28万石に減封となり、
その石高で廃藩置県を迎えた。
(Wikipediaより)

小さい墓所が
一般の有名人?
大きいのは江戸期の藩主

※一の橋の近く

ああ同期の桜供養塔



西洋文明と肩を並べようとして
日清、日露と勝ち戦の後に
日本を守って散った英霊に送る~

※鶴田浩二さん墓所
 
鶴田 浩二(つるた こうじ、
(1924年〈大正13年〉12月6日 - 1987年〈昭和62年〉6月16日)は、日本の俳優、歌手。
昭和を代表する映画俳優の一人として数多くの映画やドラマに主演。
戦後派として登場し、甘さと翳りを兼ね備えた天賦の美貌で一躍トップスターに躍り出た。
若いころは絶世の美男子としてアイドル的人気を博したが、
中年期からは任侠映画や戦争もので見せた渋い魅力で、
日本映画界を代表するスターとして長らく君臨した。
また、歌手としても独特の哀愁を帯びた声と歌唱法で知られた。


若き特攻隊員の苦悩を描いた『雲ながるる果てに』(家城巳代治監督、1953年)に
主演して以来、特攻隊の出身、特攻崩れだとしていたが、
実際には元大井海軍航空隊整備科予備士官であり、出撃する特攻機を見送る立場だった。
戦後、元特攻隊員と称するようになる者は多く、一つの流行でもあったが、
鶴田はあまりにも有名人であるため同隊の戦友会にばれ猛抗議を受けるが、
一切弁明はしなかった。
黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、
日本遺族会にも莫大な寄付金をした。
この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった。
(Wikipediaより)




もう一度
東方向へ~

※空挺部隊将兵の墓

榊莫山先生が著書に書かれていた
空海の直筆『空』一文字を彫られた墓標
お逢いしたかったです!

※自衛隊空挺部隊

関東大震災慰霊碑
関東大震災(かんとうだいしんさい)は、
1923年(大正12年)9月1日11時58分、日本時間、以下同様)に発生した
関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって
南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。
死者・行方不明者は推定10万5,000人で、
明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。
(Wikipediaより)

※合掌~

歌碑

※色んな仏像が~




関東大震災殃死群霊碑



満州国五族の墓






大阪八千代座
吉田卯之助墓所
ググったら
大阪松島・九条に在ったとか~

六地蔵尊灯籠塔

献花台



県道脇の食堂などの民家

※合法的な無料駐車場
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