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新緑の京都からUFO先生の友人のSさんの
リクエストで堺へと!
前年度からの御誘いが〜
中々時間が合わなくて〜
藤の花が咲き出しました。

鉄砲町〜堺市駅(河口慧海) 08
直接メッセンジャーで連絡が入りました。
今度堺へ行きましょう!と…

だからいつもの神社と路地・路地探し〜堺は古墳も。。。
相棒自転車は久々のUFO先生U号とレンタサイクル。。!
今年の目標はフルサイズ!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成29年04月19日
                                           UP日:平成30年03月07日

環濠の清掃船
桜の花は花筏で〜



南海本線七道駅向かって〜

※空き地駐車場は寂しいなぁ〜
電鉄高架が見えてきました。

明治期からの道

※駅は高架の上です〜

河口慧海
前にも

※河口 慧海(かわぐち えかい、
1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、
黄檗宗の僧侶。仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。
僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。

中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、
仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、
梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。
日本人として初めてチベットへの入国を果たした。
(Wikipediaより)


昭和58年(1983年)河口慧海の生家跡に近い、
南海本線七道駅に堺ライオンズクラブの
創立25周年記念事業として建てられました。
険しいヒマラヤの岩場を越えてゆく慧海の姿が
彫刻家・田村務氏によって制作されました。
(堺市立図書館HPより)







雪山遊人
ヒマラヤ越えて〜



若い方にも覚えていてほしいですね。

前に〜ダイセル工場は
ショッピングセンターに成って居ました。

その後石碑は、昭和19年(1944)に堺市に寄贈され、
長くザビエル公園に保存されてきましたが、平成2年(1990)に
発見場所に近い七道駅前に移設されました。
放鳥銃定限記碑は、堺の鉄砲史の一側面を物語り、
江戸前期の鉄砲の教習や試射に関する情報を伝える資料として大変貴重なものです。
また、石碑が発見されて以来の歴史的経過を鑑み、
昭和19年(1944)に堺市に一括して寄贈された
柳原吉兵衛による石碑顕彰資料を附(つけたり)指定としています。
(堺市HPより)




産業遺産でしょうか?

戦国時代以降、日本では近江の国友、同じく日野、紀州の根来、
和泉の堺などが鉄砲の主要生産地として栄え、多くの鉄砲鍛冶が軒を連ねた。
根来のみは織田信長・豊臣秀吉による紀州攻めの影響で桃山期以降衰退したが、
国友・日野・堺はその後も鉄砲の生産地として栄え、高い技術力を誇った。
また城下町において、
鉄砲足軽や鉄砲鍛冶が集中して居住した場所は「鉄砲町」と呼ばれ、
現代でも地名に残っている。
(Wikipediaより)



手が掛っています。
石工さんのニヤリが見えそう〜



堺の環濠の北西の端に辺ります。



天満宮御旅所
神輿台も〜



地蔵堂

※土壁に門灯に〜

袖壁付の長屋が好きです。



虫籠窓付家屋

※漆喰アート

お香屋さん

※ガス灯なら尚良いかも〜

旧鉄砲鍛冶屋敷
本瓦に出格子
大好きです!


江戸時代から続く鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗。
町家建築として最古の部類に属し、
鉄砲の生産現場など鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一のものとして
市の指定有形文化財になっています。

種子島に伝わった鉄砲の製法を橘屋又三郎などが堺に伝えてから、
堺は日本一の鉄砲生産地になりました。
現在、江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一の貴重な建築物で、
市の指定有形文化財になっています。
江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、
「元禄二年堺大絵図」にも記載されており、
わが国の町家建築としても最古の部類に属するとともに、
堺を支えた鉄砲の生産現場が残されている建物としても貴重です。
大坂夏の陣の後、新たな町割が行われ現在に続く堺のまちが形成され、
堺は鉄砲や包丁、織物などの製造業を中心に発達し
商業のまちとしても成熟していきます。
北旅籠町一帯、特に鉄砲鍛冶屋敷周辺は当時の面影を多く残し、
切妻造、平入りの建物からなる当屋敷は、
江戸初期の鉄砲鍛冶の生活がしのばれます。
(堺観光ガイドより)


清学院(せいがくいん)は堺環濠都市区域の北端に所在し、
元禄2年(1689)の『堺大絵図』には「山伏清学院」の名で描かれるなど、
修験道(しゅげんどう)の道場としての歴史を持っています。
また、江戸後期から明治初期にかけては
「清光堂」(せいこうどう)の名で寺子屋としても使われており、
北旅籠(はたご)町で生まれ、
仏典を求めて日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えてチベットに入った
河口慧海(かわぐちえかい)(1866年〜1945年)もここで学んでいました。




重厚な家屋玄関

※悲しいなぁ〜
壁のトタンに屋根の跡…

何とか名残をとどめています。

大多福湯さん
現役ですかね?

引き戸、虫籠窓に千本格子〜

※少し新しい銅板張の家屋

街の一部分で残されてます。

※袖壁家屋

懐かしい造りの家屋



空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、
平安時代初期の僧。
弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で
知られる真言宗の開祖である。
俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。
日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、
今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、
中国より真言密教をもたらした。
能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。

青面金剛(しょうめんこんごう)は、日本仏教における信仰対象の1つ。
青面金剛明王とも呼ばれる。夜叉神である。
インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、
日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。
庚申講の本尊として知られ、三尸(さんし)を押さえる神とされる。


不動明王 (ふどうみょうおう)、梵名アチャラナータは、
仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。
大日如来の化身とも言われる。
また、五大明王の中心となる明王でもある。
真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の
日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。
五大明王の一員である、
降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王らと共に祀られる。

役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、
舒明天皇6年(634年)伝 ? 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、
飛鳥時代の呪術者である。姓は君。 修験道の開祖とされている。
実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい
諡号 ~變大菩薩


聖宝(しょうぼう、天長9年(832年) - 延喜9年7月6日(909年8月29日))は、
平安時代前期の真言宗の僧。
醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。
また、後に当山派修験道の祖とされる。
俗名は恒蔭王。天智天皇の6世孫にあたり、父は葛声王(かどなおう)という。
諡号は理源大師。
空海の実弟真雅の入室弟子で、源仁(真雅の弟子)の付法弟子。
貴顕社会との交流を重視した師真雅に対して、華美や権勢と一定の距離を置き、
清廉潔白・豪胆な人柄として知られた。
(Wikipediaより)


※煉瓦は雨垂れ受け?

低い軒



此処にも壁に名残が〜

※虫籠窓がアチコチニ

堺特産打刃物

※古路箱

元自転車屋さん

※サンスター自転車看板

京都風〜
紀州街道沿いの
水野鍛錬所さん
ガス灯が御洒落!

※綾之町東商店街のアーケード横目に

高い塀
出格子



商店街

阪堺線の踏切渡って〜



此処も元工場ですね。

※南海高野線踏切

古路箱横目に〜



塀の向こうは〜

※駅前マンションが
開発の高波のように〜

Sさんは京都へ〜
受付3階って…

※駅前〜
お疲れ様!
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