topページへ戻る コンテンツ メニューへ戻る 親爺紹介 リンクへ 一言BBSへ

新緑の奈良が好き!!
2017年GWはゲスト呼んでのトリオポタ、山辺の道〜。
古墳と環濠と街道〜信仰の里をブラリと!
色んな出会いが!

上街道・櫟本(在原寺) 21

今年のGWは五月晴れで〜
6輪ポタ…浮ドンもねずみ君も休みやし、T君来えへん?
私の誘いに、彼は軽い気持ちで…エエよと〜

先日の王寺は水運、今回は山裾を!
だからいつもの神社と路地探し。。。
相棒自転車は700Cランドナー+ブロ君+TOEIランドナー!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成29年05月05日
                                           UP日:平成29年05月27日

上街道から東(山添・名張方向)に向いた
街道分岐点ですね。

※  新西国第十二番所
長林寺さん
萩の寺東光院さんでは??

 和爾坂下傳稱地石碑
左 不動山大師道石碑
古くからの街道ですね。

※大和棟家屋に〜
目が行きます。
 
時計・貴金属・めがね
時代に合った店造りだった…

※可愛い三角屋根が並びます。
 
上街道南へ〜



 白壁に鮮やかなカゴメソース琺瑯看板
鯉幟代わりの幟も〜



本来ならば
こんな形〜

※山の辺の道碑
 
カゴメ株式会社(KAGOME CO.,LTD.)は、飲料、食品、調味料の大手総合メーカーである。
本社機能は愛知県名古屋市中区錦三丁目と東京都中央区日本橋浜町にある。
ブランド・ステートメントは「自然を、おいしく、楽しく。」
創業者の蟹江一太郎が1899年に名古屋の農業試験場の佐藤杉右衛門から
トマトの種子を譲り受けてトマトの栽培を開始。
その数年後、トマトが豊作でダブついた時にトマトの保存を兼ねて
国産トマトソースの製造に踏み切る。
幾度となく失敗を重ね、1903年に国産トマトソースの製造に成功、
1906年に愛知県東海市の自宅の裏に工場を竣工し本格的トマトソースの製造を開始。
その後1909年にはトマトケチャップとウスターソースを製造し、やがて業績を上げるようになる。
蟹江は陸軍を現役除隊する際に、上官から「農業をやるなら、洋野菜をやりなさい」と
助言を受けて、これが当時まだ珍しかったトマト作りを開始するきっかけになった。
その恩を忘れないために陸軍の象徴である五芒星を商標として使おうと考えていたが、
陸軍を連想させるために許可されなかった。このため、
六角の星に改変したが「星型は認められない」という理由で却下された。
そこで、三角形を二つ組み合わせ六芒星にすることで、これが収穫時に使う
籠を編んだときの目(籠目)印であるということで商標が認められた。
1963年(昭和38年)には、社名をカゴメとし、商標は籠目のついたトマトマークとなった。
1983年(昭和58年)には、商標から籠目とトマトマークは姿を消した。
(Wikipediaより)

※家屋の前の掲示板には
蛍の光4番
「蛍の光」(ほたるのひかり)は、日本の唱歌である。
原曲はスコットランド民謡 「オールド・ラング・サイン」であり、作詞は稲垣千頴による。
4番の歌詞は、領土拡張等により文部省の手によって何度か改変されている。
千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守りなり(明治初期の案)
千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり(千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて)
千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり(日清戦争による台湾割譲)
台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり(日露戦争後)
(Wikipediaより)


横には〜
隼の写真『第25戦隊の一式戦二型(キ43-II)』
一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしき-)は、
第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ43。
愛称は隼(はやぶさ)。呼称・略称は一式戦、一戦、ヨンサンなど。
連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発は中島飛行機、製造は中島および立川飛行機。
四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、
太平洋戦争(大東亜戦争)における事実上の主力機として使用された。
総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては
海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位。
(Wikipediaより)


※木箱に目が行って〜
幼き頃の思い出には
消化砂が入っていた思い出が〜

折りたたみの
床几が有ります。

※五代目の
提灯続き
夜なべの●

代々続く何屋さんでしょうか?

大和棟

※トタン被せてですが〜

新旧家屋が混在してます。

※此処にも〜
右はJR櫟本駅方向〜

出格子の綺麗な家屋

※用水桶

悲しいなぁ〜
大きな建物が有ったんでしょうね〜

※先へ〜
痩せや〜!

愛宕山燈籠

※大和棟

白壁土蔵が〜

※土管?
井戸??
高品辺り

まんま
かどやさん

※右 ならみち
左 たつたみち
根元にはヒビが〜
残してや!

治道です
西へ行けば
もう一つの和爾下神社サン
前には

※南へ〜

愛宕山燈籠
街道を照らしていたんですね。

※元宿屋の面持ち

格子が綺麗に〜
商家でしょうか?
市場辺り〜

※本家銘
用水桶
密集地では火事(貰い火)は怖いですもんね。


雨戸も〜
袖壁も〜

※あの日が見えそうな〜

布団屋さん跡

※だるまやさん
我家の近くにも同じ名の
模型屋が有りました。

市場自治会館

※キョロキョロしながら〜

馬出しの街並み
上街道と高瀬舟の交差点ですと〜
東の福住との交易路
薪を持ってきて日常品を買って帰る〜
流通の中継地として栄えた町とか〜

※キョロキョロしながら〜

先は西名阪自動車道高架部分が
横切って〜
前から気に成る場所でした。



ん?
タイルに目が行って〜
稲荷湯さん
稲荷社は見当たりませんでしたが…
東の平尾山稲荷神社サン?

※袖壁にも目が行きます。

ねぇ〜

※位置確認中〜

此処は良く通ってました〜



南へ〜

※脇から呼ばれたような〜

あの広場は?

※在原寺石標

在原寺
神仏分離令
神仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合の慣習を禁止し、
神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。
その動きは早くは中世から見られるが、
一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、
狭義には明治新政府により出された
神仏判然令(神仏分離令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から
明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、
神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)に基づき
全国的に公的に行われたものを指す。
(Wikipediaより)


※奥には小さな在原神社サン

境内前には愛宕山燈籠

※境内下馬碑

末社 稲荷神社サン



境内風景〜

※井戸

在原業平 1 2
筒井筒(つついづつ、つついつつと読む場合も。旧かなでは「つつゐづつ」)とは、
丸く掘った井戸の井戸側(いどがわ)、わくのこと。
『伊勢物語』、『大和物語』中の物語の題材のひとつとして有名であり、
互いに惹かれていた幼馴染の男女が結婚することを内容としている。
『伊勢物語』の古い本文では「筒井つの」。
(Wikipediaより)


※在原-鉾立-北柳生-伊豆七条-馬司-今国府-
法隆寺-高安-並松-龍田-信貴山-十三峠-河内高安
マダマダデスネ〜

うぐいしを魂にねむるか
嬌柳
はせを(芭蕉)




在原神社本殿舎
奉納文字が
ほのぼのして良いですね〜

※手水鉢

在原寺碑



夫婦竹

※筒井筒にも出てくるとか〜

見返って〜
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も22年…今年こそエエ年に!
マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方、体調不良に家事・仕事にて
お休み〜残念!
ページトップに戻る

01 02 03 04 05 06 07
08 09 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 32 33 34

怪しい親爺のポタメニューに戻る
Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.