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令和元年、2019年のお盆は〜

青い圃場、アキアカネの避暑地、古の職人技の集積地…
猛暑の街中から避暑に丹波篠山へ!
木陰で涼風と一休み〜
此処は、私達の夏休みの原点でした!
今ですよ今!
昔から灘の酒造りへの出稼ぎ(デカンショ)で有名です。
中井権次一統の彫物…ほぉ〜と感嘆が漏れます。
篠山口〜宇土(熊野神社) 01

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し〜
JR大阪東線の恩恵で輪行ポタ〜相棒自転車は…片倉シルク号!
浮ドンはブロで夏親爺タンデムポタ!!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和元年08月17日
                                           UP日:令和元年10月21日

JR大阪東線の御蔭で
我家からの輪行がしやすくなって〜
(袋に入れたままで、徒歩にて乗車できます)

※篠山口駅まで〜

案外近いんですわ〜
自動車移動は帰りの渋滞考えたら…

※この袋から〜

じゃーん
今回は片倉シルク号です(S41製)。

※浮ドンはブロ君で
簡単に折りたためます。

駅近くの神社なんですが〜
今回はパスして〜



少し色付出した圃場を横目に〜

※丹波黒牛かと思えば〜
ホルスタインですね…

山際に旧村が〜

※見返って〜

旧村内へ〜



一本一得
(私は火の見櫓を、こう称してる)

※山に向かって〜

向こうに塔が〜

タカサゴユリに迎えられて〜

※清瀧山 弘誓寺さん

宇土観音(うどかんのん) 弘誓寺(ぐぜいじ) 
「うどかんのん」「宇土の観音さん」として親しまれているお寺です。
大化・白雉年間に法道仙人によって開かれ、
天地山極楽寺と言われていたとされています。
背景の山は槙が峰の頂上で、「槙が峰・千軒坊」と言われ、
たくさんのお堂が建ち並んでいたとされますが、寿永3年(1184)、
平家を追う源義経が通過した際、兵火で全山焼失しました。
ご本尊は滝に難をのがれて無事であったので再建され、
文明5年(1473)に曹洞宗になって清瀧山弘誓寺(せいりゅうざん・ぐぜいじ)と名を改められました。
本堂にはご本尊聖観世音菩薩がおまつりされています。
(丹波篠山観光協会HPより)




山門くぐれば〜

※静かな境内

桜の花と紅葉が美しいと〜

※不許葷酒入山門
禅寺の門の脇の戒壇石に刻まれる句。
清浄な寺門の中に修行を妨げ心を乱す不浄な葷酒を持ち込んだり、
それらを口にしたものがはいることを許さないの意。
(コトバンクより)


大きな銀杏の木の横から
山門見返って〜

※本堂は〜

 多宝塔ですね。



綺麗ですね〜

※忠霊 扁額
陸軍大将 男爵 
本庄 繁(ほんじょう しげる、
1876年(明治9年)5月10日 - 1945年(昭和20年)11月20日)は、
日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し
階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。
軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官を務める。
1876(明治9)年5月10日、本庄常右衛門の長男として
兵庫県多紀郡(現・丹波篠山市)に生まれる。生家は農家であった。
兵庫・私立鳳鳴義塾(現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)で学び、
1894年(明治27年)9月陸軍幼年学校に進む。
1896年(明治29年)5月、陸軍中央幼年学校を卒業し、同9月、陸軍士官学校に入校。
1897年(明治30年)11月、士官学校(9期)を卒業する。
終戦後の1945(昭和20)年11月19日、GHQから戦犯に指名され、
翌20日、青山の旧陸軍大学校内の補導会理事長室で自決。
(Wikipediaより)


本堂正面には見事な龍の彫刻


中井権次一統の彫物は、躍動する竜に代表される。その特徴は
3本のがっちりしたかぎ爪で丸い宝珠を掴んでいる。
口を開けた時の舌がぐっと立ち上がっている。
目尻が赤く塗られたものが多い。
銅を用いた髭が螺旋状に巻き上がっている。
−など。また木鼻(長い梁の両脇先端部)に唐獅子、獏、象などの霊獣を並べ、
そのほか周りに麒麟、十二支の動物、牡丹、謡曲や
中国の神仙説話などの登場人物、動物などが多彩にちりばめられている。
(Wikipediaより)

と有りますが〜

彫刻師
播州姫路 井上好郎之作
姫路なら灘のけんか祭り
木彫細工は、お手の物。

※扁額には山号

時代的には新しそうで〜



うーん
良く分からんと…

彫り物に見惚れて〜

※本堂内部正面

内部にも立派な木彫が〜

※御庭が綺麗に〜

多宝塔
脇の池

※手水鉢

脇の高台から〜


多宝塔を見下ろして〜

山門の中の仁王様

※御顔が拝めない…

「荼枳尼」という名は梵語のダーキニー(??kin?)を音訳したものである。
また、荼吉尼天、?枳尼天とも漢字表記し、
?天(だてん)とも呼ばれる。荼枳尼“天”とは日本特有の呼び方であり、
中国の仏典では“天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記される。
ダーキニーはもともと集団や種族を指す名であるが、
日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになった。
日本では稲荷信仰と混同されて習合し、一般に白狐に乗る天女の姿で表される。
狐の精とされ、稲荷権現、飯綱権現と同一視される。
剣、宝珠、稲束、鎌などを持物とする。
(Wikipediaより)

Wikipediaにも写真が載っています。

※白狐像
チラリと、こちらにも〜

大日如来さま

※石製です。

千手観音さま

※石製です。

鐘楼の釣鐘
平和壽鐘 銘

※宇土観音霊場
寺の西の飛苦の山(ひくのやま)には、
三十三観音霊場が在るそうです。


宇土観音 弘誓寺(ぐぜいじ)の東側に
熊野神社サン

※扁額

立派なスギ林に囲まれて〜

※お邪魔します〜

静かな佇まい

※手水舎

猫型の狛犬


※吽

本殿舎前の彫刻

※見事な唐獅子牡丹ですね。

木鼻の象も獅子も〜



こんな感じで〜

※拝み石は扇形
 
本殿舎



石燈籠



境内摂社
稲荷社



石段

※見返って〜

銀寄せでしょうか?
銀寄は江戸時代中期1753年に能勢町に広島から持ち帰った栗を植えたのが発祥と言われ、
江戸時代後期、天明から寛政にわたる大飢饉の時にこの栗を売り歩いたところ、
高値で飛ぶように売れ多くの銀札(当時の紙幣)を集めたことが名前の由来とされています。
能勢町歌垣にはこの銀寄の原木が平成10年頃まで残っていましたが、現在は枯れ、
その原木から接ぎ木したものが母樹として保護されています。
銀寄は他の栗に比べどっしりとした扁平な形をしています。
表面は艶があり、底の部分との境界が太くくっきりしている傾向があります。
栗らしい風味とほんのり甘く、和栗の王道といった感じ。
(旬の食材百科HPより)


※タカサゴユリに送られて〜

先へ〜


平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜
東日本大震災は8年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。
阪神大震災も24年…今年こそエエ年に!
平成末は北大阪大震災・豪雨・台風被害
令和初年は台風15・19号被害に胸が痛みます。
遂に天皇陛下は年下に〜
消費税も10%に!!
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