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盆休みは何処へ?
眼の正月しに丹波竹田へ〜!?
丹波佐吉さんと中井権次一統さんの
彫刻見に〜〜重森三玲さんの御庭も…

梶原(鴨神社) 14

今年の夏場、関西は高温とゲリラ豪雨、関東は冷夏の様相〜
それと、皆様方加齢とともに周囲多忙と身体変調…
中々スケジュールが合いません。

混むで…電車?高いで…
だからいつもの神社と路地探し〜
式内社の多い地区を新車エブリィで6輪ポタ〜
今回の相棒自転車はナショナルデモンタと片倉シルク号。。!
今年の目標はフルサイズ!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成29年08月14日
                                           UP日:平成29年08月30日

自動車で移動して…
小富士(231m)周りへ〜
登りませんよ!

※梶原集落から少し離れて
鴨神社が有ります。
右の森

神社正面

※手水舎

何度見ても〜
絵に成ります。

スッキリとした線を出しています。
狛犬


※吽

文久期の狛犬
尻尾は、なにわ型



随身門潜って〜
中の拝殿は広いです。

※摂社も〜

飾り瓦の
社紋はフタバアオイ
ハート添え

※拝殿舎正面

立派な龍が彫られてます。
中井権次一統作でしょうね。

※春日神社・加茂皇大神・八幡神社・貴船神社
の扁額

拝殿舎内部に〜
神宮皇后?

篠山市の今田地区には、住吉神社が村ごとに鎮座している。
これは、今田地区がかつて摂津住吉大社の 荘園「小野原荘」であったことによる。
鎌倉時代の文保年間(1317〜19)に、小野原荘の氏神として
住吉大社の分霊が小野原の地に勧請、創建された。
それが、のちに黒石・本荘などに分祀されたことで
住吉神社が おおいに広まったのである。
住吉神社が今田と境を接する播磨・摂津にも多く鎮座しているのは、
丹波西部から東播磨・北摂津一帯が椅鹿杣山として 住吉神社の領有するところであった
歴史を伝えたものであろう。
(篠山の歴史・見処を訪ねるHPより)


へぇ〜川舟運輸送の守り神かと思ってました。

見事な鶴の絵馬

※何方??

桃園義盟図(長澤蘆州)
円山応挙の高弟で蘆雪の義子)

※ 絵馬

水辺に矢を立てて〜
何方??

※何??

蒙古襲来??

※線描きの馬ですね〜

拝殿舎前

※赤い鳥居
稲荷社

猿田彦神社(庚申様)

※430年位の杉の巨木が有ったそうで〜
織田信長の丹波攻めの直後に植えられたとか。。

この幹がそうですか〜

※伊勢神宮・山陵・橿原神宮・明治神宮
遥拝所

 自然石使った石燈籠

※浄階(じょうかい)一級宮司
村岡元治翁頌徳碑

階位の最高位で、長年神道の研究に貢献した者に与えられる名誉階位。
神社本庁では、「神職身分に関する規程」により、
特級、一級、二級上、二級、三級、四級という身分の区分がある。
身分の選考は経歴・神社界に対する功績をもとに行われる。
神社本庁統理、神宮大宮司は特級、神宮少宮司は一級、神宮禰宜、別表神社の宮司は
二級上または二級という基準があるが、
昇級は基本的に各都道府県神社庁支部への貢献度、神職としての評価、実績による。
推薦は支部毎となるため、神職の少ない支部に於いては多い支部と比べ
昇級が早まる傾向にある。
(Wikipediaより)


まださんが気に成る
厳島神社サン

※拝殿舎にオープンテラスが…
ゆっくりお茶を飲みたいなぁ〜

土俵ですかね?

※下鴨神社との間の摂社

下鴨神社サン

※厄神神社サン

豊受神社サン
『古事記』では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、
天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。
神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。
後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、
稲荷神(倉稲魂命)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった。
伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、
「自分一人では食事が安らかにできないので、
丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、
等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、
丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。
即ち、元々は丹波の神ということになる。
(Wikipediaより)


※酪農場〜

粟島神社サン
淡島神を祀っているとか)

※豊受神社
狛犬の尻尾

豊受神社正面



由緒も〜
江戸期には鴨郷(加茂之庄)九村の総社だった。

※アンチョコです。

お百度石

※郷社 鴨神社

梶原集落の一の鳥居

※向こうの森が鴨神社

 大きな扁額が付いた
四つ脚鳥居
(大正期の中井権次彫刻)



御神木
天然記念物・大銀杏



 

 古く平安の時代から
乳の木として近郷近在の住民から崇敬されてきた。
樹医の山野忠彦氏の蘇生治療により蘇ったと〜
山野忠彦(やまの ただひこ、1900年6月25日 - 1998年9月25日)は、日本の樹医。
日本で初めて自らを樹医と名乗り、各地の巨木・名木を枯死から救った。
大阪府の油問屋の息子として生まれたが、母は産後の肥立ちが悪く生後すぐにこの世を去った。
幼くして実業家、山野丑松の養子になり、3歳のときに韓国の京城(現 ソウル特別市)に移住。
朝鮮全土にガソリンを販売する石油代理店として財を成した。
中央大学で学ぶため日本に帰ったが、勉強はせず芸者遊びに明け暮れ中退。
1926年、忠彦26歳のときに丑松が死去。
忠彦は義父の遺した莫大な財産を使い果たそうと考え、
事業は継がず人夫を30人したがえて朝鮮各地の山にのぼった。
5年で財産はなくなった。
しかし中国人の勧めで不動産屋をはじめ、
友人から借金して買った土地が数ヶ月で4倍の値になった。
この事業でまた資産家になった。
裕福になると不動産屋をやめ、
ソウルの郊外に50万坪の村をつくり地主兼村長になった。
集中豪雨の多発する地帯だったため植林をはじめ、
一度は失敗したが数年後に1000本の桜を植えることに成功した。
この経験から樹木との関わりができた。
しかし、太平洋戦争での敗戦後当時20億円あった朝鮮の資産は全て放棄させられ、
大阪の焼け野原に引き揚げてきた。
大阪では進駐軍から「日本の山にある鉱石の分布を調べてほしい」と依頼された。
調査で山を巡ると、荒れ果てた姿に心を痛めた。
1948年に調査を終えると、家族に樹医になる決意を伝えた。48歳であった。
それから昼は研究、夜は仕事という生活が始まった。
1964年に治療の実験のため大阪市公園課の臨時職員になった。
その五年後、木の治療のため全国行脚をはじめる。
治療した樹木の数は1988年に1000本に達した。
(Wikipediaより)

※JR市島駅の方向

友政方面

※いつまでも残ってくださいませ。
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も22年…今年こそエエ年に!
マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方、急遽過ぎと体調不良に家事・仕事にて
お休み〜残念!
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