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初春の京都を歩きポタ 
JR桂川駅から東西寺へ〜
西国街道も天神さんも・・・

八条(六孫王社) 09

昨年からの目標はフルサイズ!
中々時間が取れなくて、メンバーさん達とは・・・
穏やかな天候のもと、家内と新春早々歩きぽた〜
で、自転車は??〜〜汗

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成28年01月03日
                                           UP日:平成28年01月11日

六孫王神社表門へ〜
砂路地見っけ!



六孫王神社に到着〜
壬生川通
川は見られない。

※六孫王会館

神社正面

※神竜池鯉魚塚

弁財天社

※人龍池に掛かる石橋

誕生水弁財天

※石橋横から〜

石橋渡って

※宝物殿?

唐門

※拝殿社

清和源氏始祖の源経基を祭神とすることで知られる。
多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つとされる。

社伝では、境内は源経基の邸宅「八条亭」の跡地であるといい、
応和元年(961年)に経基が臨終の際に「死後は龍神となって邸内の池に住んで子孫の繁栄を祈るから、
この地に葬るように」と遺言したという。
そして、応和3年(963年)9月に嫡子の満仲が現社地に経基の墓所を建立し、
その前に社殿を造営したのが当社の創建であるとしている。
本殿後方に現在も残る石の基壇は、経基の廟であると伝わる。
鎌倉時代には、源実朝の妻の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺)を建立し、
当社はその鎮守社とされたという。
その後は戦乱などにより社殿を失い、経基の墓所だけが残されたとも伝える。
元禄13年(1700年)からは、江戸幕府により社殿の再興が進められた。
元禄14年(1701年)には正一位の神階と権現号が授けられている。
社殿の再建は宝永4年(1707年)をもって完了し、その社殿が現在まで伝わっている。
その後は江戸幕府の滅亡とともに衰微し、また神仏分離により大通寺とも分離した。
大通寺境内は、明治44年(1911年)に国鉄の鉄道用地となったため移転している。
近代社格制度では、明治6年(1873年)8月に村社に列し、明治14年(1881年)12月に郷社に昇格した。
(Wikipediaより)



神馬

※立派な石燈籠が奉納されています。

居住地跡なんですね。

※見返って〜

立派な唐破風

※手水舎

蝋梅が〜
早いですね。

※東側より〜
北側は国鉄用地に転用したとか。

寒牡丹
季節なり?



境内の地蔵様



南区戦没者慰霊の碑
新しいので太平洋戦争でしょうか?
京都では先の戦は
応仁の乱だったと聞いたことも〜

長い戦争
永久的に無くなって欲しいですね。

※文久期の盛岡城主献灯

もう少し北へ〜
梅小路公園・在来線の脇の
兒水不動尊

※壬生川の名残?

ポンプも〜

※JR新幹線高架

吉田神社の節分
有名所ですね。

近所の地蔵様

※化粧されています。
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も21年…今年こそエエ年に!
マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方
お休み〜残念!
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