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作年は、あまりポタに行けなかったなぁ〜
大和川左岸沿いの地区
古墳と式内社と地蔵様(04)
藤井寺市林(土師ノ里)T

他の地区と比べて呆れるくらいの数が在ります。
エエ天気のGWポタは、前に伺った所の穴埋め的場所
浮ドンと!カモさんと!!まだまだサンと!!!
久々のフルタイム〜♪

※マウスポインターを置いてください。 

                                           撮影:平成25年05月03日 

允恭陵の杜が山のように〜

※本来は前方後円墳で環濠なんですが〜

路地が環濠の脇に〜
行きましょう!



允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日)は、
第19代天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。
雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。
中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。

都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや、現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥か)。
飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇が允恭であった。
(Wikipediaより)


※1対の白鷺が〜
お告げか??

道路か?
なんて考えながら…

※古墳横の神社に到着

宮内庁看板

※ポカンと開けた地区
木は切ったのでしょうか?
 允恭天皇惠我長野北陵(倍塚)石碑が…
宮の南塚古墳

※国府八幡神社サン

正式には「國府八幡神社」と書きます。
伝承によれば、近世の初期に壺井八幡宮(羽曳野市)の
分霊を勧請して始まったとされています。
1907年(明治40年)12月23日に、他の数社とともに北隣りの北條村にある式内社の黒田神社に合祀(ごうし)されました。
この合祀は、前年の明治39年に出された勅令によって進められた神社合祀政策の一環でした。
明治末期の神社合祀政策は、地方自治政策の中に神社中心体制を盛り込むために神社の数を減らし、神
社への公費の支出をしやすくするというものでした。
こうして一度は消えた国府八幡神社でしたが、戦後の1946年(昭和21年)6月2日に
黒田神社から元通りに複社し、現在に至っています。
(藤井寺市立道明寺東小学校HPより)


※道理で〜
木々も若いし社殿も新しいけど
石物は古そうと話してました。



※吽


北側に隣接する潮音寺(ちょうおんじ)は、明治初年の
神仏分離までは、当神社と一体の神宮寺(じんぐうじ)
であったと思われます。
(藤井寺市立道明寺東小学校HPより)

※内部の狛犬さんが可愛い!


東高野街道街道沿い
国府(こう)地区を散策して〜

※地蔵様と思えば〜
蓮休寺サン脇に

地元の愛好家(?)との交流も〜??



三体の地蔵様が祭られてました。

※ちょいと失礼〜

道標〜
東高野街道街道と長尾街道との交差点



道明寺文字も〜

長尾街道西へ行きます〜

※立派な松を横目に〜

御陵向けての路地

※見返って〜

先へ〜

※市野山古墳(允恭天皇惠我長野北陵)


お勉強〜



環濠堤の上に街道が走っています。

※マンションが近くまで〜

街道なんで地蔵様も
道標兼ねています。

 右 大坂 さかい
左 なら はせ

右 ふじいてら道

東日本大震災、台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。
福ちゃん、ねずみ君はお休み〜
中々、皆の都合が合わない。。。
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