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令和元年、2019年の〆…年末は~
生駒山の西麓を~東高野街道の成立するまで、
以前に自然発生的に成立した山根街道。

冬晴れの里山と渡来人の足跡と!
今ですよ今!
前の~続きで近くは
枚方市中宮(百済王神社)~ 12

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
JR大阪東線の恩恵で輪行ポタ~相棒自転車は…プー太!
まだサンはブロ君でリベンジのタンデムポタ!!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和元年12月29日
                                           UP日:令和二年02月26日


西方寺さん

※中宮地区自治会館







百済王神社碑

※参道

公園整備中

※百済寺(くだらじ)は、
大阪府枚方市にかつてあった寺。
天平勝宝2年(750年)頃に百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)に
よって建立されたと言われている。
1941年1月27日に国の史跡に指定され、更に昭和27年(1952年)3月29日に
特別史跡に指定された。その後1965-1967年に史跡公園としての整備が行われた。
これは全国初とされる。
1973年10月、「百済寺跡の松風」として枚方八景の一つに選ばれた。
(Wikipediaより)


前には

※枚方市内、交野ヶ原の小高い丘の上にある。
金堂とその背後の講堂、食堂を中央に、
それらの東西に塔を配した伽藍様式をもち、
それぞれ礎石が残っている。
また中門、南門、東門、東院の跡もわかっている。
回廊跡は中門から東西両塔を取り巻いて金堂に取り付いている。
この伽藍様式は薬師寺に似ているが、
薬師寺は回廊が講堂に取り付くので百済寺とは異なり、
百済寺はむしろ新羅の感恩寺と同形式であることが指摘されている。
このことから、古代日本と朝鮮半島との交流関係を知る上で
重要な遺跡であることが知られる。
なお奈良時代に創建されたが、七堂伽藍が完成したのは
平安時代初期までかかったものと考えられている。
(Wikipediaより)


 
西塔・東塔・金搭跡など~

※回廊跡

中門から金堂

※百済王神社本殿舎

百済王氏が河内国交野の地に移り住む以前、
摂津国難波京にも「百済寺」「百済尼寺」があったと考えられている。
『日本霊異記』第14話に「難波百済寺」とあり、
難波の「百済寺」は斉明朝(7世紀中葉)から10世紀までは存在していたと考えられている。
「百済寺」は現在の大阪市天王寺区堂ヶ芝廃寺、「百済尼寺」は
同区の細工谷遺跡に比定されている。
1997年、細工谷遺跡からは「百済尼」「百尼寺」の墨書のある
奈良時代の土器が出土したことから、「百済尼寺」の存在が判明した。
両遺跡から出土した瓦の形式にも共通性が見られる。
「百済尼寺」で和同開珎の枝銭が見つかっている。
細工谷遺跡からも銭貨鋳造を伺わせる遺物が出土している。
(Wikipediaより)


※百濟王神社(くだらおうじんじゃ)は、大阪府枚方市にある神社。
旧社格は村社。百済王氏の祖霊を祭る神社である。
百済滅亡後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は
朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、
その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、
749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献じた。
功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ、
百済王氏の居館を難波から河内に移した。
当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営された。
その子の南典が死去した時、朝廷は百済王の祀廟を建立させた。
数度の火災により百済寺・百済王神社は次第に衰退した。
後に奈良の興福寺の支配下に入り、再興が図られた。
現在の本殿は、興福寺と関係が深い春日大社の本殿を移築したものである。
(Wikipediaより)


拝殿舎前には
大祓の茅の輪

※扁額

本殿舎脇から~

※境内社 若宮八幡神社

境内社 相殿社



脇から~

※裏の石燈籠

記念碑

※奉納馬

凛々しい姿

※高岡市製ですね。

もう一度、
拝殿舎正面

※山車(だんじり)
天保期の彫刻師
花岡良三、小松源蔵、藤原勝義、相野清七の
銘が見られるとか~
名は大事!

10月の例大祭に山車は
見られるのでしょうか?



立派な石燈籠



秋葉山

※妙見宮

産神

※大峰山

手水舎

※鳥居

細工人銘も~



交野離宮(かたののりきゅう)は、
平安時代初期に河内国交野郡に設置された離宮。
現在の大阪府枚方市にあったとみられているが、
具体的な場所については同市の中宮説と楠葉説がある。
延暦6年(787年)10月、桓武天皇が交野に行幸した際に
藤原継縄の別業を行宮としたのが離宮の始まりとされる。
交野の地は長岡京に近く、貴族たちが狩猟地とした他、
桓武天皇がこの地で郊祀を行ったことが知られている。
また、桓武天皇は百済王氏と関わりが深く、
交野には同氏の氏寺である百済寺などがあった(継縄の室も百済王氏の出身である)。
平安京への遷都もあり、桓武天皇が没すると用いられなくなり、
嵯峨天皇が藤原緒嗣らと離宮を訪れた際にその荒廃ぶりを漢詩にした作品
(「和左金吾将軍藤緒嗣過交野離宮粋感旧作」)が『凌雲集』に収められている。
(Wikipediaより)




鳥居正面より

※扁額

天保期の拝殿舎とか~

※どんと焼き
難しい時代ですね。

お邪魔しました~

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