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2018年の晩秋は〜
やっぱり奈良が好き!
秋晴の一日〜聖徳太子の足跡と勧請相撲…
同じ奈良でも絵馬堂の多い地区〜
今ですよ今!
香芝の名の由来は…へぇ〜!?
王寺町畠田・山上(火幡神社)  06

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し〜

やはり浮ドンとは快晴〜カルテット(quartet)ポタ。。
相棒自転車はブロ君3台とUFO先生2号!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成30年11月24日
                                           UP日:平成31年04月15日

虫籠窓の重厚な御家

※絵に成りますね〜

脇の溜池堤防には
墓標兼ねた道標

前にも
01 02 03

俗名 

※すぐ だるま寺
 
芦田池
片岡山の南側のすそ野、芦田池周辺の一帯は、昔から葦田といわれており、
かつては一帯に葦が繁茂していたため葦田原とも呼ばれていました。
それが葦田の原と歌に詠まれる歌名所となったのです。
歌聖・柿本人麿も、「明日からは若菜つまむと片岡のあしたの原はけふぞやくめる」と歌っています。
(王寺町HPより)


※特定保水池整備事業
昭和59年に創設された特定保水池整備事業は、
既存の調整池や池沼・溜池を改良して治水容量を増加させ、
恒久的な調整池としての整備を図るものである
(同事業はH3に流域貯留浸透事業に統合)。
(国土交通省HPより)


山の上まで
住宅地が広がっています。

※堤防越えたら
住宅地は低いですものね。

地蔵様集約地

※昔は、この辺りに
宿屋が在ったとか〜
地元の方談

R168は交通量が多くて〜

※西側に向かいます。

ゆっくりと坂を上ります。



名残の柿は赤く朱く〜

※流石に〜

脇から社域へ〜



拝殿舎

※正面から〜

沢山の石燈籠



立耳狛犬


※吽

なにわ型

※脇から本殿舎〜

紅葉も負けずに赤く朱く〜

※拝殿舎内部には
絵馬は無い

絵馬が無いですなぁと〜

※一の鳥居は石段の下に見えます。

手水舎

※手水鉢

絵馬堂が在りました。

※内部覗けば〜

真新しい奉納絵馬が…

※ずらりと〜

百度石

※もう一度
拝殿舎

山上のすべてと小黒・送迎(ひるめ)の一部の氏神で、
明神山参道を境に白山姫神社と氏子域を二分しています。
『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』には、
大同元年(806)に伊予国10戸の神封を火幡神に与えるという記事があり、
平安時代にはすでに存在していたことがわかっています。
本来は火幡神を祀り、すぐれた織物・機織を意味する火幡・秀幡・秀機(いずれも「ほはた」と読む)
という言葉から、養蚕・機織を担う集団に祀られたのがはじまりとも考えられます。
火幡神社のなかで最も古い灯籠は、拝殿石段下の西側にあるもので、
元禄9年(1696)に畠田村の人々によって奉納されています。
現在の拝殿は昭和46年(1971)に再建されたものですが、
それ以前の拝殿は明神山の山頂に建立されていた送迎太神宮の拝殿を
移築したものであったといわれています。鳥居前にある石灯籠は、
天保2年(1831)に大坂の人々が送迎太神宮(ひるめだいじんぐう)に奉納したもので、
送迎太神宮が撤去された後、この場所に移されてきたと考えられます。
また、江戸時代にはナモデ踊りが行われており、
かつては踊りに使用した太鼓などが残されていました。
(王寺町HPより)

前には〜
01 02

※ナモデ踊りは他所でも〜
飽波神社サンは前に

参道石段下って〜

※扁額

大阪銘燈籠
此処にも〜

裏門から入って
表門へ〜

※先へ〜
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜
東日本大震災は8年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。
阪神大震災も24年…今年こそエエ年に!
北大阪大震災・豪雨被害
台風被害の秋ポタを春にUP(遅!)
連続的な台風20〜25号被害に胸が痛みます。
平成の次の元号は令和とか…

久々の4人連れ!
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