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令和元年、2019年の秋本番は~吹田へ!
古の職人技・物流の集積地…

突ポタde大阪市内の北側へ!
神社と地車の彫刻に溜息が~

前には~
01 02 03

浮ドンは、ポタ空白地とか…

河内の地車の彫物師・舟板蔵も…ほぉ~と感嘆が漏れます。
吹田市泉町(泉殿神社)~ 04

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
近場なので自走ポタ~相棒自転車は…プロムナード化したパナソニック号!
浮ドンはブロ君でタンデムポタ!!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和元年10月22日
                                           UP日:令和二年01月30日


1889年(明治22年)11月 - 有限責任大阪麦酒会社設立。
1891年(明治24年)- 吹田村醸造所竣工(後の吹田工場)。
1892年(明治25年) - 「アサヒビール」発売。
1893年(明治26年)2月 - 大阪麦酒株式会社に社名変更。
1900年(明治33年) - 「アサヒ生ビール」発売。
1901年(明治34年)- 札幌麦酒株式会社東京工場竣工(後の吾妻橋工場)。
1906年(明治39年)3月26日 - 大阪麦酒(アサヒビール)、札幌麦酒(サッポロビール)、
日本麦酒(ヱビスビール)が合併し、大日本麦酒株式会社を設立。
社長は馬越恭平。本店は東京府荏原郡目黒村大字三田247。
1921年(大正10年)- 大日本麦酒株式会社博多工場竣工(後の博多工場)。
1927年(昭和2年)- 日本麦酒鑛泉株式会社大阪工場竣工(後の西宮工場)。
1949年(昭和24年)9月1日 - 過度経済力集中排除法及び企業再建整備法の適用を受けた
大日本麦酒株式会社の決定整備計画に基づき、朝日麦酒株式会社を設立。
(Wikipediaより)





レンガ建物
何時頃の物でしょうか?

※吹田城址だそうで~
『わが町すいた』によると「天正6年(1578年)荒木村重とともに
織田信長に反旗をひるがえし、翌7年非業の最期を遂げた吹田氏の居城の跡」
(Wikipediaより)


1927の地形図では神崎川に向けて
軽便鉄道?が有ったみたいです。

※見返れば
片山公園

R479脇に
泉殿宮
ここは前に

※扁額
住吉神社宮司さん揮毫

本殿舎裏側から
お邪魔して~

※EXPO70ですやん!

七五三の時期ですか~

※境内風景~

見返って~

※拝殿舎正面から~

拝殿舎
正面彫り物

※本殿舎脇から~

狛犬


※吽
 
境内図

霊泉遺跡
古来は宇迦之御魂大神のみを祀っていた。
貞観11年(869年)に当地が長く旱魃に見舞われた際、
折りしも王城の守護神として平安京に迎えられようとしていた
建速須佐之男大神の神輿が当宮に滞在していた。
里人は建速須佐之男大神を相殿とした上で降雨を祈ったところ、
たちどころに驟雨がもたらされ、旱害から救われた…と伝えられる。
またこの時、境内に清水が湧出したという。
明治22年(1889年)この清水はミュンヘンにて「ビール醸造に
最適」と評価され、大阪麦酒(現在のアサヒビール)が
当宮付近に進出した。湧水は昭和30年代に枯渇したが、
境内に残る「泉殿霊泉」はその遺構とされる。
(看板より)


※昔は清水が満々と湧いていたんでしょうね。

堂前善吉
玉垣献納
ググったら
国立国会図書館デジタルコレクション内に
寄稿集 ルーズベルト大統領と堂前善吉氏の墨書一件が
ヒットするも公開は著作権の保護期間中とか~


※末社

脇の出入り口

浜の堂地車
天保年間頃 製作
彫師:小松源蔵 ともいわれる


※浜の堂だんじりは、あえて建築に主体をおく
古風さを意識して建造されたとみられます。
(浜屋敷HPより)

 
川面町(かわづらちょう)
嘉永7年(1854年)製作
大工:並河長兵衛兼廣
この地車には、製作年の棟札が残り、同時に金田町地車も手がけていた
吹田の大工、並河長兵衛兼廣によって建造されたことが知られます。
台座に彫刻を施し中央通柱に加え、後部通柱にも彫り物をいれる
脇障子を構え二対とするなど、市内では例がない独自の意匠がみられます。
又、棟端につく三面の鬼板のうち前屋根は獅子面としているが、
後屋根を波濤と向き合う竜の彫り物としていて、
市内では数少ない手法が用いられています。
細かい彫り物を、随所に配するなど、建築的形態から彫刻が前面に出て、
工芸化に向かう地車建造の様子を良く伝える作品です。
(浜屋敷HPより)




疾走する姿を見たいですね。



毎年7月の吹田祭りの主役のひとつはだんじりだ。
毎年6台が登場し、市内を練り歩く。
規模や知名度は全国的に有名な岸和田のそれとは比べ物にならないが、
意外なのは吹田のだんじりの古さ。
岸和田が大正以降のものが多いのに比べ、
吹田は江戸時代までさかのぼり、さらに15台もあった。
また船渡御も執り行われており、吹田市の隆盛ぶりがうかがえる。
(シティライフアーカイブス 吹田のだんじり二百年の歴史HPより)




五條市で
前には

戎社(地車戎)

※内部には地車が~

「もともと西の庄町で曳かれていただんじりが、
曳かれなくなって地元であるこの泉殿宮に奉納された。
戎社になったのは昭和30年代。
泉殿宮でもそのころ今とは少し離れたところにあった
戎社の建物がボロボロになって、建て替える必要があり、
遷宮の時にそのだんじりをお社として使った」という。
(シティライフアーカイブス 吹田のだんじり二百年の歴史HPより) 




鉄髭龍は
当時の流行でしょうか?
前には

※派手ですね~!

見事な彫ですね。



 経済力で豪華絢爛  こうした神社の発展やだんじりの誕生の背景にあったのが、
吹田の経済力だった。元高校教諭で「兵庫だんじり研究会」の村岡眞一さんによると、
吹田は江戸時代から川の開削により川筋に港町ができ、豪商が集った。
米もよくとれたことから経済的に恵まれ、立派なだんじりを作ることができたそうだ。

(シティライフアーカイブス 吹田のだんじり二百年の歴史HPより)


紀元二六〇〇年
国旗掲揚台

昔の飾り瓦

※修復されたんですね。

手水舎

※銅板張りの鳥居
玉垣には昭和八年銘

こちらが正面ですね。

※参道ですね~

浄光寺さん

※古路箱見っけ!

先はJRの高架
見返って~



参道~



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