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令和元年、2019年の秋本番は~吹田へ!
古の職人技・物流の集積地…

突ポタde大阪市内の北側へ!
神社と地車の彫刻に溜息が~

前には~
01 02 03

浮ドンは、ポタ空白地とか…

河内の地車の彫物師・舟板蔵も…ほぉ~と感嘆が漏れます。
東淀川区菅原(天満宮)~ 14

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
近場なので自走ポタ~相棒自転車は…プロムナード化したパナソニック号!
浮ドンはブロ君でタンデムポタ!!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和元年10月22日
                                           UP日:令和二年02月07日


浄水所?脇を~

※阪神水道企業団
大道取水場
阪神水道企業団(はんしんすいどうきぎょうだん)は、
兵庫県の阪神間5市(神戸市・尼崎市・西宮市・芦屋市・宝塚市)で
構成する用水供給事業を行う一部事務組合。
地方公営企業法の適用団体である。
(Wikipediaより)


三宝寺跡伝承地の発掘では縄文土器が発見されている。
『日本書紀』の応神朝22年(291年)3月5日の条に
「天皇幸難波、居於大隅宮、登高台而遠望
(すめたみこと なにわ みゆきし おおすみのみやにおいて
たかきやに のぼりて えんぼうす)」
との記載がある。
現在の大隅神社の場所が、応神天皇の離宮である「大隅宮」の
建てられていた大隅島であったとされる。
『続日本紀』の安閑朝2年(532年)9月13日の条に、
「勅して牛を難波大隅並びに媛島松原に放たしむ」
と記されている
この難波大隅と媛島松原は、霊亀2年(716年)に
「大隅媛島の二牧を罷む」という記述が続日本紀にもある。
平安時代に入っても、この付近では乳牛を放牧してその牛乳を朝廷に献上しており、
のちには「乳牛の牧」という荘園になった。
(Wikipediaより)

の地を~

※上の道は井路跡なんですわ~
この木も往時の名残…

能條の旧村~

※正泉寺さん

唐臼も~



大宮サン
祭り中~

※近寄れないのでパスして~

近くのイトーサイクルさんにも
立ち寄らずに…

※先へ~

豊里村菅原へ~

※菅原天満宮サン

3両しか保存されていないDF50形ディーゼル機関車が菅原天満宮公園に
(4号機)それぞれ静態保存されている。
(Wikipediaより)


※見えない…

石段上の狛犬


※吽

 手水鉢

※神輿庫

拝殿舎正面

拝殿前の狛犬


※吽

正面龍は籠の中

※木鼻獅子
ええ彫です

地車の輪っぱでしょうか?

※かわいい海鼠壁

天照宮

※お伊勢さんの遥拝所

本殿舎脇から~

※八ッ原稲荷大明神

本殿舎には
社殿内狛犬

※撫で牛

鳥居脚元には梅鉢紋



創建1050年記念碑



もう一つの手水鉢

※御神木


明治44年社立

※もう一度
正面から~

浮ドン帰るの図~
また遊びましょ!

※もう一度
振り返って~

夕日の時期

新淀川
レガッタ練習中~



帰り道~
重誓寺の由緒
寶池山白蓮院重誓寺は摂州榎並の荘において浄土真宗開闢の寺院である。
開基は島津友廣という鎌倉の武士で、高祖親鸞聖人が関東にて御化導の節、
友廣御帰依して御弟子となり、法名を賢浄と賜わる。
それより諸国経回して自行化他の道を歩み給う。
文暦元年(一二三四年)五條國綱という公家が賢浄を請じて榎並の人々を教化せしめられた。
中略
江戸時代より寺子屋等により、村民の教育に盡して来たが、明治八年七月寺内に小学校が創立され、
大阪府第五大区三小区、中村小学校と称し、江野、中(中宮)、南島(大宮)、荒生(生江)、内代関目の子弟が通学した。
その後明治二十年四月に中村簡易小学校と改称され、明治二十二年七月城北尋常小学校が創立されるまで続けられた。
当時、城北小学校の門を出ると、重誓寺の本堂屋根と大銀杏の木が見えたそうである。
榎並荘は昔から度重なる淀川の水害に見舞われたが、享和二年(一八〇二年)の長雨による被害は甚大なもので、
榎並八箇洪水記」に、その生々しい情景が記録されている。
明治十八年の堤防決壊による洪水の被害も大きく、寺本堂の中程まで水が来て、
寺族は庫裡の二階より船に乗り、天満八軒屋へ避難したと言うことである。
中略
昭和二十年六月七日、大阪市北東部に大空襲があり、寺は焼夷弾で本堂、庫裡、書院等全焼した。
当時前住職は龍谷大学予科二年で、学徒勤労動員のため造船所で働いていた。
しかし大阪市北東部が空襲と聞き、天下茶屋より走って帰ったが、
すでに門から中は火が回り残骸の山であった。
前々住職や寺族は城北公園へ避難し、無事であった。
その時多くの寺宝、記録が失われたが、次のものが疎開により焼失を免れた。
中村の子守歌に
 「榎並中村重誓寺の藤は
   根でからんで、からんで巻いて末で四尺の花が咲く」
と唄われていたそうである。
(重誓寺HPより)

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