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梅満開!天満宮の多い地区。
水路と二段蔵と大きな木!
枝切街道と旧村を一人でブラリ〜

藤田(弥治右衛門記念碑) 12

ミニランちゃんと、ソロポタなんですが〜
イニシエの初めのページ01風景も見られました。
今思えば、このページの原点ですね。

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成28年02月21日
                                           UP日:平成28年02月25日
                                           

街道沿いを行けば〜
歴史の証人に出会えます。
義民弥治右衛門屋敷跡だそうで〜

※BM(水準点)

 真新しい銘版が〜

※今の守口市大久保町から藤田町(とうだちょう)にかけては低地として知られ、
田畑が頻繁に水浸しになっていた。
しかし、そのせいで収穫量が減っても年貢は例年どおり取り立てられる。
解決するには、たまった水を排水するための排水樋(ひ)をつくる必要がある。
庄屋の小泉弥治(こいずみやじ)右衛門(えもん)は、何度となく代官所に願い出たが、
費用がないと言われ、つくることの許可さえ出なかった。
そうこうするうちに、慶安元(1648)年に大雨が降り、
田畑が見えないくらい水浸しになってしまった。弥治右衛門は意を決し、
自費で資材を用意して、なんと一夜のうちに排水樋をつくってしまったのだ。
田畑の水はみるみる引いていったが、代官所は無許可で排水樋をつくった弥治右衛門に対し、
「樋門を壊して元に戻すなら命は助けよう」と、無情なことを言い渡した。
元に戻されては、また村が苦しいことになる。
弥治右衛門は村のために拒否し続け、ついに家族5人ともども処刑された。
だが、幕府側はなんと樋を壊さなかった。
そのままにしておいたので収穫量が上がり、豊作を祝うまでに発展した。
そして、その樋を大蔵樋(おおくらひ)と名付けた。
その名は豊かな蔵の意味で、地名の大蔵新田(しんでん)の由来になっている。
(大阪日日新聞社 大阪ロマン紀行 2013年11月8日より抜粋)


すぐ:とくあん・大坂道

※すぐ:なら・いせ道
方向変??

すぐ:佐多・京道
俗名 弥治右衛門

※すぐ:吹田・中山道

義民弥治右衛門碑

※磨り減って読めない…
 
土地改良記念碑

※大阪府知事
赤間文三書
1947年4月、第1回大阪府知事選挙に立候補し、当初優勢が伝えられた社会党公認候補である
香月保(修猷館の同級生でもある)を下して当選。
3期12年務めたが、在任中はそれこそ土曜日曜も無い精勤振りであったという。
1950年ジェーン台風が大阪を襲来し、赤間は毎日ボートで被災地を視察しながら被害状況に心を痛めていた。
その後9年掛けて大阪湾防波堤を完成させ、赤間府政のモニュメントとなった。
その他、府営上水道網の整備や住宅建設計画に尽力し、1958年には千里ニュータウン建設を決定した。
一方、大阪府営の公営競馬・競輪については、早くから廃止の意向を持っており、1955年には開催中止を表明した。
なお、知事時代は、中央に陳情に出向いた時など「天皇」の異名に相応しく高姿勢な態度で臨み、
一部の政界有力者の不興を買ったといわれている。
また、大阪の清風中学校・高等学校を運営する清風学園の名は、幕末の長州藩の藩政改革者村田清風にちなんで
1949年に赤間が命名したものである。(Wikipediaより)


淀川沿いは
悪水が多かったんですね。
稗島では喜左衛門 樋之跡も〜
大阪市内周辺でも
1 2 3

※先人達の血と汗の結晶

弥治右衛門墓

※綺麗に清掃され、
花も祀られています。

大蔵閘碑

※物悲しいが
凛とした形

やはり由来文字は
すり減って?削られて?います。
時の為政者の考え次第??

この歩道が井路で
大蔵樋門が此処に在ったんですね。

前にも似た景色

昭和60年銘
その人の仕事が後年どう評価されるかは?
前には

※にゃんこ

土地名義は
守口市??

※弥治右衛門名冠した公園

 石臼も〜



寝屋川の 鉢かぶり姫も
それなりに可愛かったですが〜
守口は…
(大和田+庭窪で大久保??)

古川 大蔵橋親柱

※井路は遊歩道に〜

こんな感じ〜



古川
上流部は

※古川とは文字どおり、古くからある川のことです。
かつて淀川は、現在のように西北に流れるものと太間付近から南へ分流するものがあったようです。
文禄3年(1954)に豊臣秀吉が文禄堤を築いたとき、この南流はせき止めていました。
その川から用水を取り入れていた村々は、文禄堤樋門を設けて取水するようになったのです。
それから古川は、池田方面より南部一帯の各村の悪水になりました。
寝屋川に合流して古川はその姿を消しますが、運送船の利用は早くからあり、
大利には舟入場の跡が残っています。
池田方面の悪水を集め、大利の共同墓地のすぐ北方で旧茨田堤を横切り、
同墓地の東方から府道寝屋川交野枚方線をくぐり、旧交野街道の大高橋に出ます。
これが古川のもとの流れで、この川筋が茨田堤(まんだのつつみ)の位置を示すものといわれています。
(寝屋川市HPより)


 江戸期に近い明治期の地形図
守口に淀川分流が〜

※ミモザが咲き出しました。
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も21年…
世界の人々が平和に暮らせますように〜
今年こそエエ年に!

マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方
お休み〜残念!
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