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梅満開!天満宮の多い地区。
水路と二段蔵と大きな木!
枝切街道と旧村を一人でブラリ〜

北島(大楠) 17

ミニランちゃんと、ソロポタなんですが〜
イニシエの初めのページ01風景も見られました。
今思えば、このページの原点ですね。

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成28年02月21日
                                           UP日:平成28年02月25日
                                           

この日、古川を何度も渡って〜

※前から気になる松の木

北側には集落の墓地が〜

※道路に面して
フェンスもなく…

見返って〜

※ 大東亜戦争
供養塔

北島墓地

※此処でも
欅?榎?椋?
大きく枝を張って〜

街道松?
もう少し近くには、
何本か在ったような〜

綺麗に改築された土蔵

※楠根神社

北島の集落に入ろうとしたら〜
道路工事中〜
えっ?水路どうするの?



田舟が通れるように
反橋に成っています。

※田舟が行来した
風景を見たかったなぁ〜

道路拡幅で
蓋付き暗渠化するのでしょうか??

※あれれ〜
反対に
エエ時に来ましたかね。。

地域性が無くなるなぁ〜



大阪市内は大坂万博以来
問答無用で暗渠化しましたものね。

※こちらは残りそう〜

周りから徘徊します。

※井路が縦横に〜
上は第二京阪高架

第二京阪高架は
この辺りのランドマーク

※此処は記念すべき
inisie01ページ目の
撮影場所

此処で鮒が居たんですわ。。
茨田の堤の完成後、低湿地が徐々に開拓され、鎌倉・室町時代にもなると
河内平野中央部の最も低湿な池沼地を除いて、
ほぼ現在見られる集落が成立していたと思われます。
 江戸時代には古川の流れも定まり、京や大阪に近い立地の重要性から
市内の約8割以上が天領となり、直接江戸幕府の支配を受けました。
豊かな水郷農村として近世集落が形成され、
「段蔵」「バッタリ」などの人々の知恵と工夫が生み出されました。
 江戸時代後期には菜種や木綿の栽培でも発展を遂げ、
蓮根栽培も活発になってきました。(門真市HPより)


※この桜の花が見たいなぁ〜

2003年のページには
高架道は見られない。。

※この舟は有りましたね。

二艘有ったのに〜

※北島村中へ〜


北島自治会館
破風付きやん!

※水路も〜

ん?
この場所は〜

※my橋と
煙抜き家屋も近くに〜

田舟がアソコにも〜
楠と墓標〜

※ロケーションはGOOD!


石の橋も〜

※個人の方の墓標ですね。

今回私が、保全を求めているのは、北島自治会館を東側に入った所にある舟溜りと
「北島用悪水碑設置功労者の彰徳碑」から水路を北上した箇所であります。
同地域は、水郷の面影を残した貴重な所ですが、最近、
これまでに増して古い民家が建替えられたり、駐車場になったり、
建売住宅に変わるなど、ドンドンと昔ながらの景観が失われてきています。
以前は、先に述べた「舟溜り」には、湧き水があって沢蟹も生息していたそうです。
「北島用悪水碑設置功労者の彰徳碑(しょうとくひ)」には、
大水が出ると古川よりも水位が低く、いつまでたっても水が引かない状態を
解決する為に明治10年に今の村長にあたる戸長であった
浜田嘉作氏を先頭に窮状を訴え5年後にようやく樋門の改修が実現した事が
記述されています。
同碑は、戸長の功績を称え戸長宅の側に村民感謝の記念として
立てられたと門真町史に紹介されています。
尚、「悪水」とは、排水のことであります。
(日本共産党亀井あつし議員質問:門真市議会議員団HPより)


※やはり排水の問題は
昔から有ったんですね。

明治18年
浜田家ではなく
個人の墓
記念碑ですね。

直接にはお目に掛かれませんが
楠や土蔵が点在してます。

※古川との合流部には
水門が設備されています。

東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も21年…
世界の人々が平和に暮らせますように〜
今年こそエエ年に!

マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方
お休み〜残念!
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