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令和七年、2025年!今年は猛暑が長すぎて~
でも、この日は短い秋日和

何処行こうか?
浮ドンの気に成るところ~

前には

今回も、浮ドンと!奈良へ~
大和三山巡り行こうかとしましたが~
何で?
畝傍山周りで時間切れ…残念!


奈良県橿原市慈明寺町(天神社) 03

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
今回は休日タンデムポタ~相棒自転車は…
新顔のツインドラゴンとミニらんちゃん
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和七年11月03日
                                           UP日:令和七年11月04日


慈明寺の旧村
橿原市慈明寺町
畝傍山西北麓に立地。北は寺田村。
三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「慈明寺 御油七升 正願院寄」とある。
中世、地侍慈明寺左門藤原順国は筒井順慶の姉をめとり、その子定次は筒井氏を継ぎ、
天正一三年(一五八五)上野城(現三重県上野市)城主として移封されたという。
また慈明寺氏は巨勢氏の苗裔と伝え(国民郷士記)、
城跡は当村南方の小字古屋敷・馬場ノ脇・下ノ木戸付近に推定される(飛鳥誌)。
(コトバンクより)



畝傍山裾の道

※参道鳥居が~

行きましょう~

※溜池も多くあります。

一の鳥居

※扁額

裏側から~

※バナナ(芭蕉)
青い実が成っていますね。

柿の実も赤く~

※西側には金剛葛城の峰も~

慈明禅寺さんの向こうに鳥居が見えます。

※脇にはスイセン塚古墳案内板~
スイセン塚古墳
畝傍(うねび)山西北麓、慈明(じみよう)寺北の尾根上にある前方後円墳で、
前方部をほぼ西に向ける。
名称から「大和志」などは綏靖天皇の桃花鳥田丘上(つきだのおかのへ)陵とするが、
同陵は四条(しじよう)町に治定されている。
墳丘の長さ約五五メートル、後円部に比して前方部が低平で、
狭長なことから古式の前方後円墳であろう。
畝傍山周辺は奈良盆地では古墳の少ない地帯で、
東麓には同じく前期に属するイトクノ森古墳があるが、中・後期の古墳はほとんど存在しない。
畝傍山は古墳時代の中・後期になって、なんらかの理由によって
古墳の築造が忌避、または敬遠されたものと思われる。
(コトバンクより)

慈明寺(じみょうじ)は、奈良県橿原市の畝傍山(慈明寺山)に
ある曹洞宗の仏教寺院。山号は雲飛山。
この付近は安土桃山時代の
奈良大和郡山藩主・慈明寺順国(筒井順国とも。
筒井氏の祖)の出身地でもある。

(Wikipediaより)

※慈明寺 順国(じみょうじ じゅんこく/としくに)は、
戦国時代の武将。筒井順慶の叔父で、筒井定次の実父。
筒井順興の子として生まれ、慈明寺氏の養子になったという(『和州諸将軍伝』)。
大和国慈明寺城(奈良県橿原市)の城主で、
兄・筒井順昭の死後、他の一族らとともに甥の順慶を支えたとされる。

順国は順昭の娘(順慶の姉)を妻に迎え、二男として定次を儲けたとされ、
定次は元亀3年(1572年)1月11日に順慶の養子になったといわれる(『断家譜』『寛政重修諸家譜』)。
天正12年(1584年)に順慶が死去すると定次がその跡を継いだ。
天正13年(1585年)に定次が伊賀転封を命じられた際、順国は大和に残り、羽柴秀長に仕えたという。
その後の消息は不明。
(Wikipediaより)

天神社サン

※扁額

拝殿舎正面

※狛犬

狛犬脇に
大きな木の切り株跡

※台座には明治期銘

撮影中

※石工名も~

拝殿舎前扁額

※拝殿舎内には
沢山の絵馬が~

大正期の黒牛と梅図

※反対側にも~

本殿舎3柱

※神宮寺だったんでしょうね。

遠くマラソン大会のアナウンスが聞こえる季節。

※先へ~
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