![]() 前回、まだサンとも訪れましたが~ 標高310m附近 ※天誅組終焉の地 |
![]() 尊攘派志士である土佐脱藩浪士の吉村虎太郎らは、大和行幸の先鋒となるべく 公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、幕府五條代官所を襲撃するが、 直後に起こった京都での政変により、一転して逆賊とされ、 幕府軍の追討を受け、壊滅した。 文久3年(1863年)前半期は尊皇攘夷運動が最高潮に達した時期であり、 長州藩や各地から集結した浪士などから成る尊攘派は、 朝廷にも強い影響力を持つに至っていた。 この頃の尊攘派の主張には、朝廷が直接各藩に攘夷を命じることのほか、 畿内を朝廷の直轄領とするなどの意見がみられたが、 天誅組の蜂起は、幕府に対する尊攘派の倒幕運動における初めての 組織的な武力蜂起という点で画期的なものであった。 天誅組の挙兵自体は短期間で失敗に終わったものの、 幕府領支配の拠点である陣屋や、小大名とはいえその居城が 公然と襲撃されたことは、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、 幕府の威光の失墜を更に進行させる結果となった。 (Wikipediaより) ※ |
![]() 吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ 吉村寅太郎辞世の句とか~ ※天誅義士の足跡を訪ねて |
![]() 天誅組150年記念碑 ※地図 |
![]() 後に訪れます。 |
![]() 鷲家川渡ります。 ※ |
![]() 昭和37年は100年祭だったんですね。 |
![]() 往時を思って~ ※ |
![]() 鷲家川 上流部 ※下流部 |
![]() 坂本龍馬は、姉である坂本乙女と姪の坂本春猪に宛てた文久3年の手紙で、 「戦の仕方を知らないから、ひと負けに負けてしまう。」 「私が戦の指図をしたならば、打ち破れたのに。」と書き記し、 残念がっていたという。 (Wikipediaより) ※ |
![]() 事件の収束後、天誅組に関しては罪人扱いされ、 明治維新後もしばらくは忘れ去られていたが、 土佐脱藩の隊士については、明治16年(1883年)に靖国神社に合祀され、 明治21年以降、他の隊士についても合祀されるようになった。 明治24年、吉村虎太郎、松本奎堂、藤本鉄石らの隊士が贈位されたのを 始めとして、以後、隊士に対する贈位が行われるようになる。 明治27年、当時小川村となっていた鷲家口の住民梶谷留吉の尽力により、 隊士の墓所として「明治谷墓地」、「湯ノ谷墓地」が建立された。 明治28年、小川村の宝泉寺において天誅組三十三回忌法要が営まれ、 田中光顕、北畠治房(平岡鳩平)、土方久元、土方直行、山縣有朋らが出席し、 以後9月25日を命日とし毎年法要が営まれるようになった。 天誅組の数少ない生き残りの一人で、後に男爵となった 北畠治房(平岡鳩平)は引退した後、墓碑建設を支援したり 顕彰碑の建立を行うなど、天誅組の顕彰活動を盛んに行なった。 失敗に終わったものの、倒幕運動における初めての組織的な武力蜂起という点で 維新後に再評価されることになり、現代でも「維新の魁」とする評価がある。 (Wikipediaより) ※ |
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![]() 手水鉢 ※9月24日、一行は鷲家口(奈良県東吉野村)付近に到達、 血路を開くため、那須信吾らが決死隊となって 紀州・彦根藩兵に攻撃を仕掛けた。 遅れて進んでいた吉村は戦闘開始を知って本隊の後を追おうとするが、 銃声に恐怖した人夫が吉村の駕籠を放置して逃亡してしまった。 付き添っていた隊士が付近の村で人夫を雇って再び駕籠を進め、 鷲家口を迂回し木津川村の堂本家に潜伏した。 追討軍は鷲家口周辺を探索し天誅組の残党狩りを行なっていたが、 吉村の潜伏場所付近にも探索が及んできたためその場を離れた。 27日朝、吉村は鷲家口村外れの炭小屋に潜伏していたところ、 津藩兵に発見される。 吉村は自刃しようとしたが、その前に一斉射撃を浴びせられて絶命した。享年27。 (Wikipediaより) |
![]() この大岩前が 炭小屋跡だったんでしょうね。 |
![]() 吉村虎太郎最期の地である奈良県東吉野村は、 吉村の出身地である高知県津野町と姉妹村提携を結んでおり、 所縁の地である高知県檮原町とは友好町村となっている。 (Wikipediaより) ※ |
![]() 髭題目 ※ |
![]() 杉木立に 往時を思います。 ※西へ~ 街道風景 |
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