![]() 長州藩など過激な攘夷派は失脚し、京都から追放されてしまった。 もちろん大和行幸も延期となり、天皇は政変の正当性を認め、天誅組を討つよう命じた。 ハシゴを外され、孤立無援となってしまった天誅組は協議のすえ、 十津川(とつかわ)方面に退却する。 そして徹底抗戦の姿勢を貫こうとしたが、高取城(たかとりじょう)奪還に失敗し、 吉野山中をさまよいながら北上を続ける羽目に陥った。 天誅組は吉野郡川上村武木を経て、東熊野街道の足郷峠越(あしのさととうげ)、 白屋越、東の川越で東吉野村の鷲家口(わしかぐち)に出て来る。 9月24日夕暮れ過ぎのことだ。ここから摂津・河内方面へ逃れようと考えたようである。 ところが鷲家口とその先の鷲家には、天誅組追討を命じられた紀州・津・彦根各藩が、陣を構え待っていた。 (歩く・ならHPより) ※「足ノ郷峠「川上街道」 峯越衆(おごしししゅう) 川上街道(東熊野街道支線)は、かって東吉野と川上の交流を支えた重要な街道であった。 菟田野や大宇陀の米が鷲家口(わしかぐち)(小川)を経由して川上村へ運ばれた。川上村へ の東川辻越え、白屋辻越え、足ノ郷越えの3ルートがあって、東川・白屋・武木・井光への 生活物資輸送路として利用された。また、正月や盆前には鷲家口に「市」がたってにぎわい 普段でも川上からの買い物客がこの街道を往来した。 昭和の初期頃まで、鷲家口には「峯越衆」と呼ばれ生活物資の運搬を本業にする人たちがいた。 服装は白襦袢に紺バッチ、夏は素足、冷え込みの時期は自家製の足袋にワラジ履きであった。 荷物は米60Kgが通常で、ほかに酒、醤油、魚介類、陶器、針金、釘なども運んだ。 天誅組行軍の道 文久3年(1863)9月24日、天誅組は東熊野街道を北上して武木(たきぎ)の庄屋大西家 などで昼食を接待を受け、午後3時頃同地を出発した。彼らは、戦闘に耐えうる元気な隊士を 先陣に、傷病の隊士を後陣にして足ノ郷峠を越えて東吉野に入ってきた。 そぼ降る時雨に中、「五本桜」(現キリヤクボヘリポート付近)まで来ると、百姓二人が火を 焚いて待っていた。鷲家口の情勢を聞いたところ、前夜からここに来ていたので、その後の 様子はわからないという。一行は二人を木にしばりつけて鷲家口突破の軍議を開いた。 「本隊を二隊に分け、一隊は決死隊となって鷲家口に陣どる彦根勢を突破する。もう一隊は戦闘 に乗じて主将中山忠光卿を大阪の長州屋敷まで守護する」という作戦であった。傷病の隊士の 多くは丹生川上神社方面に下り木津川・伊豆屋方面に向かった。隊士のほとんどは雄途空しく 若い命を散らしたが、5年後に明治維新が成し遂げられた。 東吉野村 |
![]() 峠の地蔵尊 標高975m附近 ※峠風景~ |
![]() 杉木立 ※私の好きな道 |
![]() 先へ~ ※天誅組も この後~ |
![]() 奇麗な杉木立横目に~ ※ |
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