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令和八年、2026年も秋の気配~何処行こか?
雨やし、丹生川上神社上社・中社・下社を
一遍に巡ろうと~。

吉野川(紀の川)源流部にも神武天皇の記憶が~
江戸末期から明治期の狼の足跡も~
今ですよ今!
集合場所は、まことちゃん!
無名處にも、ほぉ~と感嘆が漏れます。

足ノ郷峠(奈良県吉野郡東吉野村)~10

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
6輪ポタで~相棒自転車は…4輪ポタに変更します。
浮ドンと~!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和八年10月04日
                                           UP日:令和八年10月12日

長州藩など過激な攘夷派は失脚し、京都から追放されてしまった。
もちろん大和行幸も延期となり、天皇は政変の正当性を認め、天誅組を討つよう命じた。
ハシゴを外され、孤立無援となってしまった天誅組は協議のすえ、
十津川(とつかわ)方面に退却する。
そして徹底抗戦の姿勢を貫こうとしたが、高取城(たかとりじょう)奪還に失敗し、
吉野山中をさまよいながら北上を続ける羽目に陥った。
天誅組は吉野郡川上村武木を経て、東熊野街道の足郷峠越(あしのさととうげ)、
白屋越、東の川越で東吉野村の鷲家口(わしかぐち)に出て来る。
9月24日夕暮れ過ぎのことだ。ここから摂津・河内方面へ逃れようと考えたようである。
ところが鷲家口とその先の鷲家には、天誅組追討を命じられた紀州・津・彦根各藩が、陣を構え待っていた。
(歩く・ならHPより)

※「足ノ郷峠「川上街道」
峯越衆(おごしししゅう)
川上街道(東熊野街道支線)は、かって東吉野と川上の交流を支えた重要な街道であった。
菟田野や大宇陀の米が鷲家口(わしかぐち)(小川)を経由して川上村へ運ばれた。川上村へ
の東川辻越え、白屋辻越え、足ノ郷越えの3ルートがあって、東川・白屋・武木・井光への
生活物資輸送路として利用された。また、正月や盆前には鷲家口に「市」がたってにぎわい
普段でも川上からの買い物客がこの街道を往来した。
昭和の初期頃まで、鷲家口には「峯越衆」と呼ばれ生活物資の運搬を本業にする人たちがいた。
服装は白襦袢に紺バッチ、夏は素足、冷え込みの時期は自家製の足袋にワラジ履きであった。
荷物は米60Kgが通常で、ほかに酒、醤油、魚介類、陶器、針金、釘なども運んだ。

天誅組行軍の道
文久3年(1863)9月24日、天誅組は東熊野街道を北上して武木(たきぎ)の庄屋大西家
などで昼食を接待を受け、午後3時頃同地を出発した。彼らは、戦闘に耐えうる元気な隊士を
先陣に、傷病の隊士を後陣にして足ノ郷峠を越えて東吉野に入ってきた。
そぼ降る時雨に中、「五本桜」(現キリヤクボヘリポート付近)まで来ると、百姓二人が火を
焚いて待っていた。鷲家口の情勢を聞いたところ、前夜からここに来ていたので、その後の
様子はわからないという。一行は二人を木にしばりつけて鷲家口突破の軍議を開いた。
「本隊を二隊に分け、一隊は決死隊となって鷲家口に陣どる彦根勢を突破する。もう一隊は戦闘
に乗じて主将中山忠光卿を大阪の長州屋敷まで守護する」という作戦であった。傷病の隊士の
多くは丹生川上神社方面に下り木津川・伊豆屋方面に向かった。隊士のほとんどは雄途空しく
若い命を散らしたが、5年後に明治維新が成し遂げられた。           東吉野村

峠の地蔵尊
標高975m附近

※峠風景~

杉木立

※私の好きな道

先へ~

※天誅組も
この後~

奇麗な杉木立横目に~

※
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