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令和七年、2025年!大阪万博は駆込み入場者盛況de終了しました。
久しぶりの大阪市内ポタは半ドンで~

何処行こうか?
浮ドンの気に成るところ~

前には
~今回も、浮ドンと!

大阪市旭区千林(強頸絶間跡) 07

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
今回は平日半日タンデムポタ~相棒自転車は…
新顔のツインドラゴンとミニらんちゃん
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和七年10月21日
                                           UP日:令和七年10月24日


商店街から脇道へ~

※千林の旧村へ

真光寺さん
浄土真宗本願寺派のお寺



脇の路地

※鐘楼

先に多くの地蔵尊

前には

巨匠撮影中~

※土蔵が

私はこんな風景の中では
落ち着きます~

※千林商店街
お客様駐輪場

鏡遊び~
私です(^^;

※角石

エエ感じでしょう~

※屋門も

段倉

※水路も有ったんですね。

強頸絶間跡
強頸直(こわくび の あたい、? - 仁徳天皇11年か)は、古墳時代の人物。
『日本書紀』では武蔵人強頸とだけ記される。

仁徳天皇即位11年10月紀によると、天皇が茨田堤を築かせた際、
二か所だけ脆くすぐに崩れてしまう箇所があったとされる。
その時、神が天皇の夢に現れて「武蔵人の強頸と河内人の茨田連衫子の二人を河伯に祭れば、
必ずや塞ぐことができるだろう」と教えた。
天皇は教えに従って二人を探し出し河伯に祭った。
強頸は泣き悲しんで水に没して死んだとされる。
一方、衫子はその才智によって生き長らえ、人身御供とならずに堤は完成した。
それ故に、時の人は破断した箇所のことを強頸断間・衫子断間と呼んだとされる。

※大阪府大阪市旭区千林一丁目には強頸絶間跡のパネルが設置されている。
また、大正5年に作られた強頸絶間の石碑が存在するが、
現在は千林二丁目の個人邸内にあり一般公開されていない。
(Wikipediaより)
前には

この先で旧村の外れ~



見返って~

※先は京阪電鉄高架
 
脇見たら
路地アイテム
タヌキ像

背の低い函渠


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