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令和七年、2025年!大阪万博は駆込み入場者盛況de終了しました。
久しぶりの大阪市内ポタは半ドンで~

何処行こうか?
浮ドンの気に成るところ~

前には
~今回も、浮ドンと!

守口市高瀬町(高瀬神社) 13

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
今回は平日半日タンデムポタ~相棒自転車は…
新顔のツインドラゴンとミニらんちゃん
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和七年10月21日
                                           UP日:令和七年10月25日


この石柱は?

※市営住宅横目に~

護念寺さん
護念寺は永禄八年(1565)に実悟上人(本願寺第八世、蓮如上人の十男)によって創立した坊舎が起源です。
「世木御堂」(せぎみどう)という呼称については、「世木」とはかつての地名、
「御堂」とは当寺の前にかつてあったという橋、「御堂橋」「御堂前橋」(ともに大正時代)の石碑に確認できます。
境内は四季折々の草花、小鳥たちのさえずりなど、自然の豊かさを感じられる、心落ち着くお寺となっております。
なお、境内には実悟上人の墓所、大塩平八郎の高弟である橋本忠兵衛の墓がございます。
(護念寺HPより)

前には

川筋の有った道路

※背中が~

中央分離帯の有る2車線道路
前にも

※昭和22年の地形図には
松下電器産業(現パナソニック)に続く道

川筋の石積みの名残~

※此処も前に

地車の幟が~

※地車庫

このまま行けば京阪土居駅

※見返って~

高瀬神社サン

社伝では、聖武天皇の勅願で行基によって高瀬里に創建されたものであるとする。
ただし、主祭神の天之御中主神は当時の主神天照大神よりも古い神であることから
もう少し時代を遡るとする説もある。
現に、当社の付近から出土した流水文様の弥生式土器は西暦紀元前後の土器と推定され、
この地では約二千年も前から祭祀が行われていたと推測されている。

行基年譜によれば、行基は高瀬付近で高瀬川(淀川旧流)に架けた高瀬大橋と、
橋を管理する高瀬橋院(行基四十九院の一つ、高瀬寺。
華厳宗。現在は浄土宗の常称寺に縁起が伝えられている。
現在の高瀬寺とは異なるとされる)を建立し、当時の淀川南流(現在の古川筋)から
高瀬川へ通ずる運河・大庭溝を開いており、高瀬寺は当社の宮寺としても機能したものらしい。
昭和30年代には高瀬寺跡から飛鳥時代の古瓦が出土しており、聖徳太子が建立したとされる茨田寺がこれで、
高瀬寺はその跡に創建されたのではないかとの説もある(守口市史本文編第1巻・昭和38年刊)。
また、当社は難波宮の鬼門に位置することから鬼門の守護神として崇敬されていたという。
(Wikipediaより)

※扁額

式内社

※陸軍砲兵工廠退職記念品
昭和11年銘

こんな感じです。



狛犬


※吽

社殿正面

※拝殿舎前の扁額

拝殿舎飾り木彫
唐獅子牡丹

※おお~っ!と

木鼻龍



組木なんですが
立体的に!



鉄髭は有りませんが~

※黒ニャンコ

本殿舎

※脇から~

楠木稲荷神社



松下電器産業銘

※浮ドン何思う~
前に此処訪れていると~~

社紋は三つ巴

※参道見返って~

手水鉢

※保存樹だそうで~

道路向こうにイチョウの木
稲荷社だそうで~
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