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令和八年、2026年は魔夏~涼しい所へ行こう!
丹生都比売神社、高野山、
小学校の林間学校思い出します。

全国の丹生神社元社、高野山の開山逸話
今ですよ今!
前には~01
有名武将の墓所、前畑頑張れ!とまことちゃん…
ほぉ~と感嘆が漏れます。
005和歌山県伊都郡高野町高野山奥の院01~05

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
6輪ポタで~相棒自転車は…歩きポタに変更します。
浮ドンとまだサンと~!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和八年07月26日
                                           UP日:令和八年08月03日

高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、
和歌山県伊都郡高野町にある地域の名称である。

周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの山上盆地に町並みが広がる。

和歌山県道・奈良県道53号高野天川線は、
和歌山県伊都郡高野町から奈良県吉野郡天川村に
至る主要地方道(和歌山県道・奈良県道)である。

通称・高野大峯街道。
(Wikipediaより)
脇の駐車ゾーン

※標高800m附近の奥の院への道
ヒグラシの声聞きながら~

高野山という名称の単独の峰はない。
地名としての「高野山」とは、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山
・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と

呼ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指す
(行政上の字名としての「高野山」(郵便番号は648-0211)も

おおよそこれと同じ地域である)。
8つの峰々に囲まれているその地形は「蓮の花が開いたような」と形容されており、
仏教の聖地としては両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅の「中台八葉院」に擬せられている。
転軸山・楊柳山・摩尼山の三山を高野三山という。
(Wikipediaより)

私は小学校6年の林間学校
思い出しながら~

※多くの墓標が~

各々
小学校時分の自分を
思い出しながら~



大きな杉~

※大きな墓石

見上げながら~



自動車と比べても~



島津家
墓所

※へぇ~
本国には墓地も有るでしょうから
分骨されているんでしょうか?

石田三成墓所
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣秀吉に仕え、
行政・外交・検地などに卓越した能力を発揮し、
豊臣政権の中枢を担った五奉行の一人である。
公正無私な性格と信義を重んじる姿勢から、忠臣として知られる。
秀吉の死後は徳川家康の台頭に対抗して諸大名とともに西軍を組織し、
関ヶ原の戦いで敗れて京都六条河原で処刑されたが、
すべてを投げ打って主家を守ろうとした裏表のない律儀な行動とその忠義は、
人々の心に強い感動を残し、後世まで語り継がれている。

定紋は定かではなく、「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)、
または「大吉大一大万」が、足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像の裃に描かれている。
石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用がある。
「大一大万大吉」紋は藤原秀郷流山内首藤氏族が独占的に用いる家紋で、
鎌倉時代の武将、石田次郎為久(源義仲を射落とした武将)に
関連付けられたのは江戸時代の『夜討曾我紋づくし』以降である。
文字の配置や書体は不明であるが、三成の肖像画や、旗本の山内(五味)家では右側に
「大吉」左側上下に「大一大万」と描く紋形を用いている。三成は九曜紋も併用している。
(Wikipediaより)

※上州高崎安藤家墓所
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、
かつて日本の令制国の一つ。東山道に属する。おおむね現在の群馬県にあたる。
別名は、上州(じょうしゅう)、上毛野(かみつけの・かみつけぬ)、
上毛(じょうもう・かみつけ)など。

(Wikipediaより)

越後村上 内藤候墓所
村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。
藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。
豊臣政権下の1598年に村上家が当地に入ったが、1618年に改易された。
外様大名の堀家3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。
1720年に内藤家が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって
内藤家が5万石の藩を統治した。
(Wikipediaより)

※苔生した墓所や真新しい墓所も~

飫肥藩(おびはん)は、日向国宮崎郡と那珂郡
(現在の宮崎県宮崎市中南部および宮崎県日南市全域)を統治した藩。
藩庁は飫肥城。藩主は伊東家。家格は外様大名である。
なお藩主家の日向伊東氏は備中国岡田藩主家の備中伊東氏と同族である。
(Wikipediaより)

※白河藩(しらかわはん)は、江戸時代に陸奥国白河郡白河
(現在の福島県白河市)周辺を知行した藩。
藩庁は白河城。支藩として、一時期存在した白河新田藩がある。
(Wikipediaより)

起立してるのも有
崩れているのも有~
庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、
出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、
現在の庄内地方を知行した藩。
譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に
大泉藩(おおいずみはん)と改称した。
藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置いた。
支藩に大山藩・松山藩がある。
転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、
江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである
(Wikipediaより)

※本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から
江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。
本多氏11代目。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)、官途は従五位下、中務大輔である。
なお、忠勝は発給文書で「中務少輔」と併用している事例が見られる。

後世、徳川三傑・徳川四天王・徳川十六神将として崇められた。
(Wikipediaより)

松本 重太郎(まつもと じゅうたろう、
天保15年10月5日〈1844年11月14日〉 - 大正2年〈1913年〉6月20日)は日本の実業家。
関西経済界の重鎮。旧姓は松岡、幼名は亀蔵。
肥料、銀行、紡績、鉄道など多くの企業の設立、経営に参画し、
西の松本、東の渋沢と呼ばれた。
近代数寄者としても有名で号を叟軒と称す。

1884年(明治17年)に関西経済界の重鎮であった藤田伝三郎、
松本重太郎、田中市兵衛、外山脩造らによって大阪と堺の間を結ぶ
鉄道敷設が出願され、大阪堺間鉄道として会社設立が許可されたのが始まりである。
同年に社名を阪堺鉄道と改め、翌1885年(明治18年)12月に難波駅 - 大和川駅(後に廃止)間を開業した。
日本鉄道(半官半民)、東京馬車鉄道に次ぐ、日本で3番目の私鉄として、
また純民間資本としては日本最初の私鉄として設立され、路線は1883年(明治16年)に廃止された
釜石鉱山鉄道の資材を用いて敷設された。
1898年(明治31年)に大阪 - 和歌山間の鉄道を計画していた新設会社の
南海鉄道が阪堺鉄道の事業を譲り受けた。
(Wikipediaより)

※掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した藩。
政庁は掛川城に置かれた。
(Wikipediaより)

市川 団十郎いちかわ だんじゅうろう、旧字体: 市川 團十郎は、歌舞伎役者の名跡。
屋号は成田屋。定紋は三升、替紋は杏葉牡丹。役者文様は鎌輪ぬ。
江戸時代の元禄より、当代の十三代目市川團十郎まで13代、追贈1名を数える。
(Wikipediaより)



汗かき地蔵尊・姿見の井戸
奥之院の参道、中の橋の橋詰に汗かき地蔵をお祀りしているお堂があります。
このお堂の右側にある小さな井戸は、姿見の井戸と呼ばれています。
この井戸をのぞきこんで、自分の顔が映らないと三年以内に死んでしまうといわれているそうです。
(高野町HPより)

※クワバラクワバラ~

汗かき地蔵尊

中の橋

岸和田藩(きしわだはん)は、かつて和泉国南郡・日根郡などを領有した藩。
藩庁は南郡岸和田(現在の大阪府岸和田市)の岸和田城。
(Wikipediaより)




大きな杉

※奥之院参道の、中の橋を渡ってすぐさしかかる石段は、覚鑁坂とよばれています。
四ニ(死)を越えるという意味があるのか、四三段になっているこの坂は、
万一途中で転ぶと三年ともたないと伝えられ、別名を三年坂とよばれています。
(高野町HPより)

密厳堂は、和歌山県高野山奥の院にある。
檜皮葺き宝形造りの堂宇には、高野山から離れ新義真言宗を唱え
根来寺を起こした覚鑁上人興教大師が祀られている。
覚鑁上人(1095-1143)が祀られていることから、その名をとって、覚鑁堂とも呼ばれている。
覚鑁上人は、平安時代後期に活躍した真言宗中興の祖の一人で、鳥羽上皇の庇護のもと、
密厳院と大伝法院という道場を建立し、勉学のための大伝法会を再興した。
その後、大伝法院座主として弘法大師御入定三百年御遠忌大法会を行ったが、
大伝法院を本山扱いすることに、東寺と金剛峯寺から反発を受けて、
保延2年(1136)に座主職を解任され、密厳院で4年間の無言の行に入った。
保延6年(1140)には、金剛峯寺側の兵が押し寄せたため、七百人の弟子と共に根来へ移った。
また、この密厳堂の前の御廟への道は、43段の石段になっていて、
坂の上に覚鑁堂が建っていることから、覚鑁坂と呼ばれている。
(ぐるりん関西HPより)



一休み~
やっぱり涼しいわ~と…

※出石藩(いずしはん)は、但馬国に存在した藩。藩庁は出石城(兵庫県豊岡市出石町)。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、小出吉政は父の小出秀政と共に
西軍に与して丹後国田辺城を攻撃したが、

吉政の弟・小出秀家が東軍に属して関ヶ原本戦にて活躍した功績により戦後、
徳川家康から6万石の所領を安堵された。

慶長9年(1604年)の秀政の死後、小出吉政は和泉国岸和田藩に移封され、
代わって出石領は吉政の嫡男・吉英が領した。

その後、吉英は吉政の跡を継いで岸和田領を継ぐことになり、
出石は吉英の弟・吉親が継ぐこととなる。

いわばこのとき、小出家は岸和田と出石の両家に分かれたと見るべきである。
(Wikipediaより)

身代わり地蔵尊

岡藩(おかはん)は、江戸時代の豊後国(現在の大分県)にあった藩。
藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)。領地は豊後国の直入郡・大野郡・大分郡にまたがり、
小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩と呼ばれることもある。
織田信長、豊臣秀吉に仕えた中川清秀の子で、播磨国三木城主4万石を領していた中川秀成が、
1594年(文禄3年)に6万6千石で岡城に入封した。
その後の1598年(慶長3年)の検地によって大野郡約3万9千石、直入郡約3万石、
大分郡の約350石を合わせて約7万石が岡藩の表高となった。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにおいて秀成は東軍に属し徳川家康より所領を安堵され、
一度の移封もなく廃藩置県まで存続した。
(Wikipediaより)

※高麗陣 敵味方戦死者 供養塔
慶長4年(1599)に薩摩藩主島津義弘、忠恒(家久)の父子が、
豊臣秀吉の朝鮮出兵の犠牲者の霊を供養するために建てたもので、
日本武士道の博愛精神が示されたものとか。

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩(国主)。
現在の広島県の大半を占める。藩庁は安芸国佐東郡(1664年に沼田郡に改称)
広島(現在の広島県広島市中区基町)の広島城に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。
元和5年(1619年)6月福島家に代わって紀州藩より、豊臣政権下で五奉行を務めた
浅野長政の次男浅野長晟が安芸1国・備後8郡の国主大名として入封した。
芸備2国の福島領より狭少だったが、42万6000石の検知高を得て幕府から承認された。
広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ、藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いた。
また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ、
相場を見極めて売りさばき巨利を得て、「芸侯の商売上手」と
江戸時代中期の学者・海保青陵(儒学・経済学)より評された。
(Wikipediaより)

※成福院は、八葉ヶ峰のほぼ中央に位置する蓮華谷という所に位置し、
全国でもめずらしい八角形のお堂「摩尼宝塔」があります。
当院はビルマ方面戦没者のご供養と平和への祈りに力を注ぐとともに、
今尚ミャンマー(旧ビルマ)と深い関わりがあり親善交流に努めております。
(『和空』 修行と宿坊のポータルサイトHPより)

奥に~

※何撮ってますか?
日露戦争期の陸軍大佐墓所の上に
砲弾が~

近衛歩兵第4連隊(このえほへいだい4れんたい、近衛歩兵第四聯隊)は、
大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
本連隊の本営跡は戦後、東京都に払い下げられ都営霞ヶ丘アパートが建設されたほか、
都立明治公園が整備された。都営霞ヶ丘アパートは老朽化およびTOKYO2020に伴う
国立競技場周辺の再整備に合わせて2016年に取り壊され、明治公園の拡張に充てられた。
(Wikipediaより)

※芭蕉句碑
ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声

ちゝはゝのしきりに恋し雉の声
(高野の奥にたたずんで、ほろほろうつ雉の鳴声を聞けば、
 父母の慈愛の昔が懐かしく思い出され、
 さて思い出せば父母恋しの思いはもうつのるばかりである。)
(ぐるりん関西HPより)




法然(ほうねん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧。
はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、
専ら南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、
死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、天台宗で有名な法然だが、
後に日本浄土宗の宗祖と仰がれた。
平業房が法然に帰依し寄進して天台宗の浄土寺を建立した。
応仁の乱が勃発したために足利義政が新たに銀閣寺を創建した時に浄土寺を
建て直したが浄土宗の浄土院となる。
法然は房号で、諱は源空(げんくう)、幼名を勢至丸(せいしまる)
あるいは小矢児(こやちご)、通称は黒谷上人(くろだにしょうにん)、
吉水上人(よしみずしょうにん)とも。
(Wikipediaより)

※大きな墓標は
既製品でしょうか?
何時・何処から持ってきたんでしょうかね?

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主。越前松平家の祖。結城氏第18代当主。
徳川家康の次男で、豊臣秀吉の養子となり羽柴 秀康を名乗ったが、その後、
結城晴朝の養子となり、結城の通称で呼ばれるようになった。
通説では関ヶ原の戦いの後に越前国を領してから松平姓を名乗ったとされ、
松平 秀康と呼ばれるが、一次史料でこの時期に称した名字は明らかとなっていない。
(Wikipediaより)



石廟を建立した結城忠直は、乱行が理由で元和5年(1619年)豊後萩原に流罪となり、
竹中采女正に預けられ、慶安3年(1650年)に56歳で死去した。
左側は、秀康自身が母公を祀るため、慶長9年(1604年)に建立したものである。
2棟とも越前の笏谷石が用いられ、幅奥行きとも7.5mの二基の石廟が並んだ形で、
瓦、壁、柱、扉に至るまですべて石造りとし、木材はほとんど使用されていない。
笏谷石(しゃくだにいし)は、火山灰などが固まった凝灰岩の一種で、
鉱物の変性による緑がかった色が特徴といわれる。
越前丸岡城では、屋根が笏谷石で葺かれている。
国の重要文化財に指定されており、世界遺産にも登録されている。
(ぐるりん関西HPより)



浅野 長矩(あさの ながのり、旧字体: 淺野 長矩󠄁、
寛文7年8月11日〈1667年9月28日〉- 元禄14年3月14日〈1701年4月21日〉)は、
播磨赤穂藩の第3代藩主。
官位は従五位下・内匠頭。官名から浅野 内匠頭(あさの たくみのかみ)と
称されることが多い。
江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)における吉良義央に対する刃傷と
それに続く赤穂事件で広く知られる。
(Wikipediaより)

※島原藩(しまばらはん)は、肥前国島原周辺を支配した藩。
初期は日野江藩(ひのえはん)と呼ばれる。
藩庁は初期は日野江城(長崎県南島原市)、のち島原城(長崎県島原市)。
徳川譜代の高力氏、十八松平の深溝松平家が配され天領である長崎の監督、
譜代の小倉藩と同様、九州の外様大名に対する目付役を担った。

島原の乱の教訓からか、松倉氏の後に入った高力・松平・戸田の3氏はいずれも、
徳川譜代の家臣である。
なお、島原は気候温暖であるが火山地帯で土地がやせており、
実際の年貢の収穫高は表高よりも少なかったと言われている。
(Wikipediaより)

手島 右卿(てしま ゆうけい、
1901年〈明治34年〉11月3日 - 1987年〈昭和62年〉3月27日)は、日本の書家、文化功労者。
高知県安芸町(現安芸市)出身。
本名・南海巍(なみき)。ニックネームは「ライオンの右卿」。
妻は仮名書家の手島小華、長弟と次弟は、いずれも書家の高松慕真と南不乗。
(Wikipediaより)



御供所

※凝った奉納者銘

水向地蔵尊

※御廟橋
此処からは奥の院
写真撮影禁止!
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