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令和八年、2026年は魔夏~涼しい所へ行こう!
丹生都比売神社、高野山、
小学校の林間学校思い出します。

全国の丹生神社元社、高野山の開山逸話
今ですよ今!
前には~01
有名武将の墓所、前畑頑張れ!とまことちゃん…
ほぉ~と感嘆が漏れます。
005和歌山県伊都郡高野町高野山奥の院02~06

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
6輪ポタで~相棒自転車は…歩きポタに変更します。
浮ドンとまだサンと~!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和八年07月26日
                                           UP日:令和八年08月03日

不動明王石像

※水向地蔵尊

信仰の場所です

※水行場
有田川水系
御殿川上流部

此処で清めるんですかね。



御供所
門が立派に~
高野山の御供所(ごくしょ)は、
弘法大師に毎日の食事を届ける儀式「生身供(しょうじんぐ)」の調理や準備を行う、
奥の院の御廟橋の手前にある重要な建物です。
(AIより)

空海(くうかい)又は弘法大師(こうぼうたいし)
774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。
諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。真言宗の宗祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき のまお)。
佐伯直の血筋で藤原氏の血筋も入っている。
唐の後期に愛染明王(あいぜんみょうおう)を持ち帰り、密教(唐の後期の真言密教)を広めたのが有名である。
日本天台宗の宗祖である最澄と共に、日本仏教の大勢が今日称される
奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。
能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。
(Wikipediaより)



見事な木鼻
象と獅子



石版
開梆・魚梆(かいぱん)の様に
使うのでしょうか?
来た道方向へ引き返します。

※剣山健

尼崎藩(あまがさきはん)は、摂津国川辺郡・武庫郡・菟原郡・八部郡
(現在の兵庫県尼崎市・宝塚市・西宮市・芦屋市・神戸市南部・伊丹市の一部
・川西市・猪名川町)を領した藩。藩庁は尼崎城。
徳川家譜代の戸田氏鉄は寛永12年(1635年)に美濃国大垣藩へ転封となり、
青山家が遠江国掛川藩から入部し、戸田家の体制を引き継いだ。
新しく開墾した4千石を加えて5万4千石としたが、
藩主・幸成は分家に6千石を分け与えることを幕府に願い出、
これを許可されたため、4万8千石となった。
青山家時代の尼崎藩は比較的裕福だったといわれる。
青山家4代幸秀は正徳元年(1711年)に信濃国飯山藩へ転封となり、
松平忠喬が遠江国掛川藩から入部し、青山家の体制を引き継いだが、
武庫郡・菟原郡・八部郡内の計26か村が幕府に召し上げられ、4万石に減少した。
(Wikipediaより)

豊臣家と織田家を探そうと~

※色んな大きさ・形の墓所が~

豊臣家墓所

※広いが
あっさりしています。

高野山を庇護したと~



結城 秀康墓所を
横目に~

※脇道に逸れて~

あれは?

※有りました!
筒井順慶氏と隣同士

筒井 順慶(つつい じゅんけい)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。

得度して順慶と称する前は、はじめ藤勝(ふじかつ)、のちに藤政(ふじまさ)と名乗っていた。
大和筒井城主、後に大和国郡山城主。
幼くして家督を継ぎ大和国に侵入した松永久秀と戦い続け、後に織田信長に仕え、大和国主となった。
洞ヶ峠の日和見順慶という言葉は相当古くからあったようで、
それはこの際における順慶の態度を表現している。
(Wikipediaより)

織田 信長(おだ のぶなが)は、
日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。戦国の三英傑の一人。

尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。
家督争いの混乱を収めた後、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。
足利義昭を奉じて上洛し、後には足利義昭を追放することで、
畿内を中心に独自の中央政権(「織田政権」)を確立して天下人となった。
しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。

これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた
江戸幕府への流れをつくった画期的なもので、その政治手法も
革新的なものであるとみなされてきた。
しかし、歴史学界ではその政策の前時代性が指摘されるようになり、
しばしば「中世社会の最終段階」とも評され、その革新性を否定する研究が主流となっている。
(Wikipediaより)

※やはり有名人!
お賽銭が多い!!

参道外れた奥にも~

※篠山藩(ささやまはん)は、
丹波国(現在の兵庫県丹波篠山市北新町城内)に存在した藩。藩庁は篠山城。

慶長14年(1609年)、山陰道の要衝である篠山盆地に城を築くことによって、
大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとする理由から、
畿内近国や山陽道・山陰道・南海道における15カ国20大名の賦役により篠山城が築城され、
同年末に同地を領していた松井松平康重が丹波国八上から政庁を移し、八上藩から篠山藩へと移行した。
康重は、藩政の基礎を固めたが、元和5年(1619年)7月19日に和泉岸和田藩5万石へ移封された。
(Wikipediaより)

真新しい墓所も~



これも墓所?

※首のみの地蔵尊
廃仏毀釈の影響でしょうか?

苔生した墓所

※お大師さん~

谷筋の井戸

※先へ~

一体何基有るのでしょうか?

※瓢箪型

参道に戻ってきて~

※六地蔵尊
 
母子像

※これは?

予科練生の碑
何やら御父様の由縁も有るとか~
浮ドン!


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