topページへ戻る コンテンツ メニューへ戻る 親爺紹介 リンクへ 一言BBSへ

令和八年、2026年も秋も本番~何処行こか?
今回のキーワードは織田家~

有楽斎と卑弥呼の足跡~
奈良盆地の縁、三輪山が目印!
古代と中世~行ったり来たり…
今ですよ今!
大阪中心部までは直線距離で40km!
無名處にも、ほぉ~と感嘆が漏れます。

奈良県桜井市芝(芝村藩織田家墓所)~02

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
タンデムポタで~相棒自転車は…BSダイヤモンド+ALPSクライマー号+UFO1号。
まだサンと浮ドンと~!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和八年11月01日
                                           UP日:令和八年11月04日

R169渡ります~
国道169号(こくどう169ごう)は、
奈良県奈良市から和歌山県新宮市に至る一般国道である。
(Wikipediaより)

※横断は地下道を通ります~

落書したのは誰?

※此処は前に~

大聖不動明王御堂~

※此処も前に~

神社裏?参道

※

春日神社サン
拝殿舎

※今回は此方が気に成ります~

どれやろか?

※あの辺り?

神社の手水鉢

※本殿舎チラリ~

本殿舎
脇から~

※狛犬
阿吽

境内風景

※

手水鉢

※表参道~

刈り取り前の圃場横を~

※お邪魔しました~

春日神社銘~

※前回は見落としだったとか~

慶田寺さん
芝には芝村藩織田家代々の菩提寺である慶田寺(曹洞宗)が所在する。
慶田寺の山門は、明治維新後に芝村陣屋の惣門を移築したものである。
(Wikipediaより)

※向かいます~

お邪魔して~

※

参道~

※今回は
これに会いに~

はいポーズ!

※立派な本堂~

鐘楼~
私は梵鐘が気に成りますが…

※脇に庚申殿
屋根には瓦製猿

庚申殿扁額

※本堂扁額~

庚申殿
飾り麒麟

※



※本堂木鼻

本堂の飾り龍

※

まだサンは
山門脇の石碑が気に成ります~

※浮ドンは
本堂龍の銘が気に成ります~
 
不動明王像

※地蔵尊も~

墓地には
織田芝村藩
藩医 歴代の墓所
甲谷道庵
甲谷道庵 こうや-どうあん
1764-1837 江戸時代後期の医師。
明和元年7月4日生まれ。大和(奈良県)芝村藩御殿医の甲谷家4代。
山脇東洋にまなぶ。仁術で知られ,藩主の参勤交代の道中,
まずしい病人をみると足をとめ診療,投薬したという。
天保(てんぽう)8年2月22日死去。74歳。名は紀古。
字(あざな)は東作。号は牛甫。
(コトバンクより)

※

食堂

※立派な多宝塔

この辺り一帯~

※四代
織田長清公
織田 長清(おだ ながきよ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。
大和国戒重藩4代藩主、同国芝村藩初代藩主。
官位は従五位下・丹後守。長政流織田家4代。
宇陀松山藩主・織田長頼の三男として宇陀松山にて誕生した。

天和元年(1681年)11月25日、戒重藩主・織田長明の養子となる。
天和2年2月11日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。
天和3年(1683年)5月2日、長明の隠居により家督を相続する。
元禄5年(1691年)、駿府加番を命じられる。
元禄15年(1701年)再び駿府加番を命じられる。

宝永元年(1704年)4月11日、陣屋を戒重村から
岩田村(芝村と改称)に移転する許可を得る。
ただし、工事はなかなか進まず、実際に移転したのは
延享2年(1745年)のことであった。
宝永6年7月1日、従五位下・丹後守に叙任する。
正徳4年(1714年)2月13日に隠居し、三男の長弘に家督を譲る。

享保7年(1722年)10月7日死去、享年61。
(Wikipediaより)

12代
織田 長猷(おだ ながみち、
嘉永5年7月21日(1852年9月4日) - 明治13年(1880年)6月30日)は、
大和芝村藩最後の藩主織田長易の長男。通称は敬之助。官位は従五位。
嘉永5年(1852年)7月21日誕生。明治3年(1870年)6月14日、
織田信陽の七女己酉子と結婚する。
明治6年(1873年)3月24日、家督を相続する。同年3月30日、従五位に叙任する。
明治9年(1876年)8月31日、慶應義塾に入校する。
入校に際しての保証人は織田信及であった。
明治13年(1880年)6月、広瀬神社宮司となるが、同月30日に29歳で死去した。
墓所は奈良県の慶田寺。
妻の己酉子は夫の死後、離籍した。子女はいない。弟長純が家督を相続した。
(Wikipediaより)

※織田家

読めない~

※織田 長定(おだ ながさだ)は、江戸時代前期の大名。
大和国戒重藩2代藩主。官位は従五位下・豊前守。長政流織田家2代。
初代藩主・織田長政の長男として誕生。
万治2年(1659年)12月23日、父の隠居により家督を相続する。
万治3年(1660年)12月28日、従五位下豊前守に叙任する。
寛文4年(1664年)、駿府加番を命じられる。
寛文12年(1672年)閏6月4日、戒重において死去、享年57。
法号は保善院殿高巌亮照大居士。墓所は奈良県桜井市芝の慶田寺。
(Wikipediaより)

織田 長宇(おだ ながのき)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。
大和国芝村藩9代藩主。通称は徳三郎。官位は従五位下・左衛門佐。長政流織田家9代。
8代藩主・織田長教の長男(次男とも)として芝村にて誕生。
寛政7年(1795年)2月15日、11代将軍・徳川家斉に御目見する。
同年4月26日、長教の隠居により家督を相続する。
同年12月17日、従五位下左衛門佐に叙任する。
文化2年(1805年)、駿府加番を命じられる。
文政9年(1826年)3月27日に隠居し、三男の長恭に家督を譲る。
天保10年(1839年)5月25日、芝村において死去、享年74。
墓所は奈良県の慶田寺。蹴鞠の名手であったという。
(Wikipediaより)

※織田 長明(おだ ながあき)は、江戸時代前期の大名。
大和国戒重藩3代藩主。長政流織田家3代。通称は主殿。
2代藩主・織田長定の長男として誕生。
寛文12年(1672年)8月6日、父の死去により家督を相続する。
しかし、病弱だったようであり、若年での隠居を余儀なくされた。
延宝9年(1681年)3月19日、幕府に宇陀松山藩主・織田長頼の
三男・長清との養子縁組を願い出る。
なお、養子候補者としては、その他に旗本の織田貞則、織田貞輝、
柳本藩主織田成純も挙げられていた。
年齢的な問題から長清に決まったようである。
延宝9年(1681年)7月10日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。
天和3年(1683年)5月2日に隠居し、養嗣子・長清に家督を譲った。
元禄6年(1693年)11月4日、幕府から戒重に移住する許可を得る。
元禄12年(1699年)7月10日、戒重にて死去した。享年40。
墓所は奈良県桜井市芝の慶田寺。
(Wikipediaより)

有楽斎の話ながら~
織田 長益(おだ ながます)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。
長益系織田家嫡流初代。 織田信秀の十一男。織田信長の弟。
有楽 如庵(うらく じょあん)と号したため、
織田 有楽斎(おだ うらくさい)として言及される場合も多い。
織田信長の弟の一人であるが、信長とは年齢が13歳離れており、
前半生の事歴はあまりわかっていない。
母は信秀の側室のうちの一人と推測されるも、不詳。
同年の本能寺の変の際は、信忠とともに二条新御所にあったが、
長益自身は御所を脱出し、近江国安土を経て岐阜へ逃れたとされる。
変後は甥の信雄に仕え、検地奉行などを務める。
小牧・長久手の戦いでは、信雄方として徳川家康に助力。
蟹江城合戦では大野城の山口重政救援、下市場城攻略にも参陣しており、
蟹江城の滝川一益の降伏を仲介した。
戦後家康と羽柴秀吉の講和に際して折衝役を務めている。
また、佐々成政と秀吉の間を斡旋したともいう。
天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。
天正18年(1590年)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として
摂津国島下郡味舌(現在の大阪府摂津市)2000石を領した。
この頃、剃髪して有楽と称す。
姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会っている。
大坂退去後は京都に隠棲し、茶の湯に専念し、趣味に生きた。
元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、
有楽本人は隠居料として1万石を手元に残した。
四男・長政と五男・尚長は元和元年(1615年)に父が隠棲した際に、
有楽が大和国内に領する3万石を分割して1万石ずつを与えられた。
長政が戒重藩(後の芝村藩)、尚長が柳本藩の藩祖であり、
いずれも1万石の外様大名として明治まで続いた。
元和7年(1622年)12月13日、京都で死去。享年75。

※

他家の檀家寺でも有ります。

※お邪魔しました~

紅葉の季節に成ってきました。

※山門内から~

立派な鎹

不許葷酒入山碑
怪しい親爺のポタメニューに戻る

01 02 03 04 05 06
07 08 09 10 11 12
13
14 15 16 17 18
19 20 21 22 23

ページトップに戻る


Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights