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令和八年、2026年も秋も本番~何処行こか?
今回のキーワードは織田家~

有楽斎と卑弥呼の足跡~
奈良盆地の縁、三輪山が目印!
古代と中世~行ったり来たり…
今ですよ今!
大阪中心部までは直線距離で40km!
無名處にも、ほぉ~と感嘆が漏れます。

奈良県桜井市芝(芝村藩陣屋跡)~03

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
タンデムポタで~相棒自転車は…BSダイヤモンド+ALPSクライマー号+UFO1号。
まだサンと浮ドンと~!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和八年11月01日
                                           UP日:令和八年11月04日

織田村芝の路地へ~

※立派な屋門~

土蔵も~

※明り取り窓にも庇

上街道
街道風景~
上ツ道(かみつみち)は、古代日本における官道のひとつで、
近世日本において同官道を元にした街道である。
近世においては、上街道(かみかいどう)とも呼ばれた。
飛鳥時代に奈良盆地を南北に縦断するために整備された道で、
現在の奈良市と桜井市を天理市経由で結ぶ。現在の幹線道路では国道169号に相当する。
6世紀後半から7世紀にかけて整備された古代計画直線道路のひとつで、
南北方向に延びる道としてはいちばん東側に位置した。
同様に南北に縦断する中ツ道、下ツ道とほぼ等間隔で平行するが、
櫟井(いちい、天理市櫟本町)付近から北は、東の山系の山麓部となるため、
直線道路の痕跡は残っていない。
桜井市から天理市南部にかけては比較的よく形跡が残っている。
その道路幅は発掘調査により43mと推定されている。
桜井では「山田道」と接続し、飛鳥方面にも続いていた。
しかし平安京遷都以降は次第に使用・維持がされなくなったと考えられている。 
箸墓(現在の桜井市箸中)付近は壬申の乱の古戦場となった。
平安時代以降は官道としては機能しなくなり、代わって仏教信仰の広まりとともに
寺院への参拝道として賑わうようになった。
近世にはいると、その道筋の一部区間が西側にずれるが、
奈良、櫟本、丹波市、三輪、桜井といった町を結ぶ幹線道路として機能し、
奈良から長谷寺、室生寺、三輪明神への参拝道としても賑わったほか、
大坂、京都、奈良方面から伊勢方面を結ぶ「伊勢街道」のひとつとして機能した。
(Wikipediaより)

※

街道沿いには残されています。

※
 
サンクス浮ドン!

街道の外へ~

※三輪山が~

トタン被せ

※水路が~

地蔵堂

※

水路脇の路地を~

※正面に三輪山

刈り取られた水田横目に~

※ランドナーの世界

踏切が見えますか~

※
 
サンクス浮ドン!!

※

平田池

※

大神神社の大鳥居が~

※三輪山バックにJR桜井線

先へ~

※芝陣屋の堀が有るはずと~

有りました~

※案内板は無いですが~

ゴミは無く
大切にされているみたいです。

※一本一得!

陣屋跡へ~

※芝公民館

織田村の名残~
シンチョコさん

※消防団にも~

キョロキョロしながら~

※この倉庫は?

陣屋跡とは関係が有るのでしょうか?

※馬場跡?

この石垣は?

※陣屋跡だそうで~

芝村陣屋(しばむらじんや)は、
奈良県桜井市大字芝村(桜井市芝、大和国式上郡)にあった
芝村藩の陣屋。当初は戒重(かいじゅう)に陣屋を構えた。
織田長益の四男長政が元和元年(1615年)に1万石を分知され、
式上郡戒重に陣屋を構えたのが始まりである。
関ヶ原の戦いで東軍に与し、戦功を挙げ、その後は豊臣氏の家臣になっていた。
豊臣氏滅亡後に徳川氏への配慮から所領3万石のうち、
1万石を自分の隠居領(味舌藩)に、
1万石ずつを四男長政と五男尚長に分知させ、
四男長政の系統が芝村藩として存続するが、
陣屋が芝村に移るのは第7代藩主輔宜の代の延享2年(1745年)である。
長政以降第10代長易の代に明治維新を迎えている。
陣屋址は桜井市立織田小学校の敷地となり、周囲に石垣が残存している。
また、陣屋南門が慶田寺山門として移築されている。
(Wikipediaより)

※


案内板

※忠魂塔の銘版
西南の役から大東亜戦争まで
地区の戦死された方々の名が刻まれています。
昭和28年銘

一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、
1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1931年〈昭和6年〉9月2日)は、
日本陸軍の軍人。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。
教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、
軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。
弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て
1874年(明治7年)10月には陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、
1876年(明治9年)3月には陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。
彼の武名を一躍世に知らしめたのが日露戦争での旅順攻囲戦である。
歩兵第6旅団長として参加した彼は第一次総攻撃では盤竜山東西堡塁を攻撃し
配下の大内守静歩兵第7連隊長が戦死する程の死闘となるも占領に成功。
日本軍で唯一目標の占領に成功した。
続く第二次総攻撃でも無名の1保塁(日本側呼称「P保塁」)を占領する
武功を挙げその功によりこの保塁は「一戸保塁」と呼ばれるようになった。
(Wikipediaより)

※多分、日露戦争時の物でしょうね。
建設時期は消されていました。

学校前には~

※立派な家屋の文具屋さん
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