
駅前通り~
標高69.5m附近
先は崇神天皇陵
※紅屋さんの前を戻ります~
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緩やかな上り~
※土蔵も~
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此処にも~
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標高76.9m附近
※この場所に織田家柳本陣屋が
在ったとか~
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この石垣は当時の物とか~
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柳本藩(やなぎもとはん)は、大和国式上郡・山辺郡・宇陀郡を領有した藩。
藩庁は柳本陣屋(現在の奈良県天理市柳本町黒塚古墳)。
なお、藩庁は陣屋であるが、家格は城主格大名であった。
織田信長の弟で、茶人として有名な織田有楽(長益)は、藩領3万石のうち、
1万石を自分の隠居料(味舌藩)とし、残りの2万石うち、1万石を四男の長政に、
同じく1万石を五男の尚長にそれぞれ分与した。
このため、長政の系統は大和国芝村藩として、尚長の系統は柳本藩として存続することとなる。
尚長の後、柳本藩は織田長種、織田秀一と続いたが、第4代藩主・織田秀親の代である
宝永6年(1709年)2月、前将軍・徳川綱吉の法会が寛永寺で行われているとき、
発狂した前田利昌によって秀親が殺害された。このため柳本藩は改易の危機を迎えたが、
家老たちが機転を利かせて秀親は病死ということにして、
弟の成純を養嗣子として跡を継がせ、改易の危機を脱した。
江戸時代中期頃になると、小藩の悲しさから藩財政の窮乏化が表面化する。
このため領民に重税を敷いたが、第10代藩主・織田秀綿の代である
明和6年(1769年)1月には百姓が重税に反対して強訴を起こすに至った。
享和2年(1802年)12月にも百姓による年貢軽減を求める一揆が発生し、
織田軍と百姓との間で乱闘による死傷者が多数出ている。
さらに江戸時代後期に入ると、ただでさえ藩財政が厳しい中で
文政13年(1830年)には火事により柳本屋敷が全焼する。
このため第11代藩主・織田信陽は天保4年(1833年)10月に藩士27人のリストラを行った。
そして嘉永5年(1852年)12月27日には信長以来の名族ということもあって、
城主格に任じられた。
幕末期では天誅組の反乱鎮圧や天皇陵の修築工事を行うなど、
早くから官軍に近付いていた。
明治維新後は版籍奉還により知藩事となり、
明治4年(1871年)の廃藩置県により柳本藩は廃藩となり、
柳本県を経て奈良県に編入されたのである。
なお、織田氏の諸藩では他に、織田信雄の系統で
天童藩、柏原藩が、有楽の系統で上述の芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続した。
有楽の系統は他に野村藩が存在したが、江戸時代初期に除封、無嗣断絶している。
(Wikipediaより)
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城郭の様な石積
※こんな感じで~
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公園整備された
黒塚古墳入口~
※黒塚古墳(くろつかこふん/くろづかこふん)は、
奈良県天理市柳本町にある前期(3世紀末頃)前方後円墳。
33面の三角縁神獣鏡が出土したことで有名。
本古墳は、奈良盆地の東南部に位置する大和古墳群に属し、
台地の縁辺部に立地している。
最初に発掘調査が行われたのは1961年(昭和36年)の事前調査であり、
後世に城郭として利用されたことがこの時分かった。
また、1989年(平成元年)、周囲の池の護岸工事の事前調査が行われている。
1997年(平成9年)から翌年にかけて学術調査が
奈良県立橿原考古学研究所によって行われ、規模と墳形が明らかになった。
古墳の石室は、通常は天井石で天井部を塞ぐことが多く、
合掌造状の天井は珍しいが、この方法は地震に弱く、
中世に起きたと思われる地震で天井部分が石室内に崩落し、
その後の大規模な盗掘も大量の石材に阻まれ大部分は断念した痕跡があった。
つまり地震が盗掘者から副葬品を守ったことになる。
戦国時代には古墳に柳本城を築城、江戸時代織田家が城跡に
柳本陣屋を構築し柳本藩藩庁とした。
そのため、近世になってからは庶民は黒塚古墳には立ち入れなかったため、
その後の盗掘も防いだことになる。
(Wikipediaより)
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元は陣屋
その後は警察署だったと
地元の方に教わりました。
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大好きな玄関の面持ち
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